(乃至 政彦:歴史家)
関東に入った長尾景虎(上杉謙信)の軍勢はまず下総の古河城にいき、古河公方の足利義氏へ表敬の姿勢をとった。 さらに上野の上杉憲政と合流し、北条方の重要拠点・武蔵松山城を短期間のうちに制圧、その勢いで相模鎌倉へと突き進んだ。その頃、景虎と意気投合し下向していた近衛前嗣だったが、なぜか彼らに同行していなかった。
関白の越後下向
すべての野心家が、低い階層にいるとは限らない。
現職の関白である近衛前嗣という若者は、出自の良さから位人臣を極めた若者だった。
前嗣に野心が芽生えたのは、永禄2年(1559)の夏である。「京都の無念なる条々」に失望しているところ、上洛した長尾景虎と意気投合して、越後への下向を決意したのだ。前嗣は、関白と言っても名前ばかりで、政治に対する実権のない現状を強く憂えていた。だからと言って現実逃避したかったわけではない。当代随一の野心家として、途方もない計画を企図していたのだ。
その下向は入念に準備された。前嗣が姿を現すと、景虎は、宿泊所として用意した越後至徳寺で一行を歓待させた。景虎はすでに関東に越山して不在であった。
関白は、弟の聖護院道澄、家礼で京都進発の5日前に従三位に叙されたばかりの西洞院時秀、まだ幼い子息、そしてこれから関東滞在中に上野・下野・武蔵で寺院を建立することになる高僧の知恩寺岌州を伴っていた。なお、前嗣の妹に絶姫という女性がいて、景虎に恋心を抱いていたという俗説もあるが、彼女は実在の人物ではない。完全な作り話だ。
いかにも仰々しい一行である。どう見ても短期間の観光を目的とする一団ではないだろう。だが、これまでの研究は、関白が何を望んで下向したか、確たる答えを出せていない。景虎の東国経略を支援しに来たことだけは間違いないが、具体的にどんな役割を担うつもりでいたのか、不明なのだ。
景虎が関東を席巻して、北条からの反攻が行われた頃、古河城で2年近く滞在したことだけはわかっている。しかし、それ以外の政治的言動が残っていないため、何をしたかったのか、微妙に見えてこないのだ。それどころかせっかく景虎が奉戴した反北条派の古河公方・足利藤氏と不仲だったと言われ、しかも最後は景虎と喧嘩別れして帰京してしまっている。こういうところを見ると前嗣の動きはどこか中途半端で、景虎の足を引っ張っているように見えなくもない。
ここからは前嗣の企みを探るためにも、越山した景虎の続きを追ってみよう。
勝沼五郎のクーデター失敗
前嗣が越後に向かっている最中の永禄3年(1560)11月3日、武田信玄は親類衆の勝沼五郎(今井安芸守信良)を粛正した。
五郎は、信玄が出馬したら、甲府でクーデターを起こすつもりでいたが、一年前から信玄の諜報機関に監視されていた。そしてこのたび、敵方と通じる密使を捕獲され、すべてが露見した。
五郎はその地位に相応して、たくさんの武田一族や有力領主と親しい関係にあった。甲府の処刑場は、血のにおいで、充満しただろう。五郎が粛正されると、信濃で西牧氏が謀反するなどの混乱が打ち続く。
信玄はクーデターの危機こそ免れたが、まだ簡単に身動きの取れる状況にはなかった。もともと事件に関与していなかった景虎は、意に介することなく関東で新年を迎えることになる。一応ここまですべて順調に進んでいる。その胸のうちは、期待と不安でこれまでになく胸を高鳴らせるものとなっただろう。
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鎌倉へ迫る景虎
永禄4年(1564)1月下旬、長尾景虎の軍勢は、下総の古河城へ迫った。
古河にいるのは、古河公方の足利義氏である。義氏は、北条氏康の妹の子だった。
景虎はここで下馬して、表敬の姿勢をとった。御所巻きなどと同じ、お諌めのポーズを繕ったのだ。もしこれで公方が景虎のお諌めに応じれば、北条の「玉」が、景虎の玉として転がり込んでくることになる。だが、公方は早々と相模の小田原城へ遁走した。
もちろんこれで構わない。景虎の陣営には、簗田晴助と足利藤氏がいた。
藤氏の母は、晴助の妹である。この大戦の裏には、氏康と晴助による権力闘争があった。氏康が前公方の跡継ぎを藤氏から義氏に変更させたせいで、今日の体制があった。晴助は、元の予定通り藤氏を公方に就任させて、その外戚の地位に就きたかったのだ。
現役の公方が下総から逃げたのなら、遠慮はいらない。前公方は昨年5月頃に亡くなっている。段取りを整えて、その地位を奪い返せばいいだけだ。晴助は「ついに俺の時代が来たか」と心を弾ませたことだろう。
景虎は、晴助の動向に一抹の不安を覚えながらも、上野の上杉憲政と合流して次の軍事行動に移る。次の狙いは、北条方の重要拠点・武蔵松山城だった。景虎はこの難攻不落とみられる松山城をごく短期間のうちに制圧し、その勢いで相模鎌倉へと突き進んだ。
この時までに景虎のもとには関東中の諸士が馳せ参じており、その人数は雑兵を含めて11万5000人を超えていたともいう(『謙信公御年譜』など)。おそらく誇張された人数で、実数も不明だが、前代未聞の大軍で武田・今川の援軍を得た北条でも、真正面から対抗できなかったのは事実である。大軍はいよいよ小田原城へ迫っていく。
関白の動向
その頃には関白近衛前嗣も景虎のもとへ合流していておかしくないのだが、なぜかその軍勢と行動を共にしていない。おそらく古河城に留まったのであろう。次の古河公方はまだ決まっていない。ただ、気になるのは、『甲陽軍鑑』をはじめとする北条・武田寄りの軍記の多くが、関白には「関東公方(=古河公方)」への野心があったと記していることだ。
わたしはこれを少し前まで荒唐無稽な作り話かなと思っていたが、実は反証材料がないばかりか当時の情勢を見直していくと一考の価値があるのではないかと考え直している。
前嗣が公方就任を希望していたとすると、鎌倉時代の九条氏のごとく「摂家将軍」として、東国に君臨するつもりでいたことになる。
関東の古河公方は、もともと鎌倉公方である。公方とは将軍である。京都には征夷大将軍・足利義輝がいる。その正室は前嗣の姉妹で、義輝と前嗣は義兄弟である。足利時代の関東公方は、もともと京都の将軍の縁者が就任しており、今はそれが世襲化されている。それで東国がうまく治まっていたかというと、そんなことはなく、長々と混迷を深めていた。ならば、こんな古習はさっさと改めて、関白自ら東国の公方になってしまえばいい。今ここで東西で英気に満ちた若き将軍が並び立てば、乱れきった今の世を刷新することができる。前嗣はそう考えていたのではないだろうか。
こういう計画があったとして、あくまでも景虎と関白の密約であり、表沙汰にできない内緒の計画であった。この新しい構想を前面に押し立てて、越山することはできない。もしそんなことをすれば、現地の将士から強い反発を招くに違いないからだ。特に多数派工作に奔走する簗田晴助の協力を得られなくなる。晴助は、身内から古河公方を出したがっていた。
おそらく景虎は越山後、諸士の反応を見ながら、満を持して、「このたび下向された関白さまこそ新たな公方にふさわしい」と宣言し、摂家将軍・近衛前嗣、関東管領職・上杉憲政を奉戴して鎌倉府を復活させ、北条・武田・今川が太刀打ちできない圧倒的な権威を獲得した上で、一大上洛を企画するつもりでいたように思われる。
傍証材料としては、東国下向中、関白がその花押を公家様から武家様に変えていること、その後、景虎が古河公方を「東将軍」と呼んでいるように、東西で将軍が並び立つことを基礎秩序と考えていた意識を伺えること(天正3年1月24日上杉謙信願文)、その後、前嗣が藤氏や憲政とともに古河城に籠もっていることなどが挙げられる。お飾りの公家ではなく、武家の「東将軍」として実権を握る予定でいたのだ。そのため、関東連合軍による鎌倉入り、小田原攻めという晴れ舞台に出ることなく、古河城に留まり、公方推戴の機運熟成を待っていたと思われる。
だが、その望みは叶わなかった。簗田晴助が意見を曲げなかったからである。
関白が下向した意義
もし景虎が関東管領職に就くための後ろ盾として下向しただけなら、景虎が越後に帰国したあと、わざわざ危険な古河城に残っている必要などない。一緒に越後の春日山城へ戻り、権威の源泉として安全に構えていればよかったはずだ。だが、関白はあえて古河城に長期滞在する道を選んだ。これは何とか新公方の足利藤氏らを説得して、次の公方は自分またはその息子に継がせて欲しいと訴える意思があったからだと考えられる。
ところが景虎が鎌倉に入る頃、この計画は現地将士から現実味がないものとして、とりあえずの変更を余儀なくされた。すると、景虎は“摂家将軍の腹心”として関東の指揮を執る権威を保てなくなる。そこで、にわかに得た“軍権のようなもの”を、長期的に安定化させるため、景虎に味方した諸将から、関東管領・上杉憲政の「名代職」と「名跡」を継承することを提案され、これを容れたのであろう。
関東管領名代職・上杉政虎の誕生
景虎は3月13日未明に、高麗山の麓に関東の軍勢を布陣させて、20km先の小田原城を攻めさせた。その間、古河公方を義氏から誰かに交代させる話し合いが進められた。また周囲の求めによって、憲政の関東管領職引退が決定された。憲政は少し前まで「光徹」の隠居号を名乗り、このたび関東越山において再び俗名に戻したばかりであったが、「その病気が治るまで(憲政煩本腹之間)」という名目で、その役職と名跡を他人に譲ることになったのだ(永禄7年8月4日付大館晴光書状)。
譲る相手は、長尾景虎であった。
永禄4年(1561)閏3月16日、家督の相続式は、相模の鶴岡八幡宮にて行われた。
ここに越後守護代・長尾景虎は、関東管領名代職・上杉政虎へと改号することになる。
なぜこの時、政虎に家督が譲られたのかは諸説あるが、そこに計画的な様子が見られないことから、突発的かつ消極的に就任することになったとするのが、近年の研究の解釈のようである。わたしもその通りだと思う。
たとえば就任直後の近衛前嗣書状を見ると、ここまで前嗣が公方と関東管領の交代劇に何の仕事もしていない事実が認められる。前嗣は、政虎の家督相続について、「諸人の申すことを斟酌して同意したこと、近頃ではお珍しいことです(諸人申につき、しん酌なからとうしんのよし、近比/\珍重候)」と述べ、「返す返すも氏を(長尾から上杉に)改めましたことは、めでたいことです(返々氏あらためられ候事、珍重候)」とどう見ても受け身である。
もし前嗣の仕事であれば、「わたしが主導し、願った通りにできて良かった」と明言したはずだが、そうは述べられていない。上杉政虎もまた簗田晴助に「わたしは関東の歴史に詳しくない(惣体関東事前後不案内)」ので、諸将の「御意見」を聞いて「その意向に任せ(任其意)」、「関東上杉氏の家督(関当名跡)」と「関東管領名代職(彼名代職)」の継承を受けることにしたと述べている。
加えて、古河公方体制についても「公方さまの御家督は、あなたとよく話し合い、どなたに決まろうとも尽力いたします(公方様御家督之事、其方へ深令談合、何之御方に而も御相続之儀、可走廻候)」と、その起請文に述べていて、家督相続を受けてもまだ古河公方の人選が定まっていなかったことを認められる。
これらが政虎自身の希望で進んだのなら、「わたしは関東の歴史に詳しくない」などという弱気な発言は控えるのが賢明であっただろう。その家督相続は、ただでさえ「非難されたりしていないでしょうか(巨難あるへき事哉)」と前嗣を不安がらせていたのだから。
ここに景虎改め政虎は、摂家将軍再臨の破綻から、苦肉の策として上杉氏を継承したのであった。
ちなみにこの関東在陣中、政虎は本国越後に宛てて、「しんぞう」なる人物を早くこちらに寄越して欲しいと懇請している。いきなり長尾が上杉になったとして、縁戚関係も何も結んでいないのでは、納得しない者がいるだろう。そこで家督相続の正当性を固めるため、憲政の娘を「新造(新婦)」として、迎え入れることを考えた形跡なのではないだろうか。
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