歴史家が大人気ゲーム「信長の野望」シリーズについて語る「信長の野望 検証記」。
シリーズ第3作目『戦国群雄伝』は『三國志』(光栄・初代、1985)の影響を受け、「武将システム」という画期的な概念を採用した。しかしこの進化によって第2作目『全国版』から消えてしまった設定も存在する。
歴史家・乃至政彦

舞台範囲が縮小した理由
連載第8回でお話したとおり、「武将システム」を実現するための取材の難しさが、『戦国群雄伝』(1988)の設計に影響を与えたと考えられる。
本作は『三國志』(初代、1985)のように武将個別のステータスを構築した。
「政治・戦闘・魅力・野望」といった能力値と「部隊(兵科)・身分」などの個性的データを取り入れ、『三國志』で示した「人事」の要素を戦国時代に落とし込んだ。面白いのは、マスクデータになりがちな「野望」のデータ(独立心の強さ)を通常の能力値に含めているところだろう。ここは『信長の野望』タイトルにふさわしい。
本作から国の防衛や行政に、配下武将を配置して運用するシステムが定着する。大名・織田信長の下で、国主・柴田勝家に戦争を任せ、丹羽長秀に内政を委ねるといった運用が可能になり、家臣たちの統率がゲームの核心に据えられた。
ただし、前回の『全国版』が果たした日本全国を舞台とする設定は後退する。
『戦国群雄伝』は、初代『信長の野望』と同様、信長が活躍した中部日本とその近辺(東海・近畿・北陸など)に縮小して、奥州と九州は省かれてしまったのだ。
この原因は複数考えられる。一つは技術的制約だ。当時の8ビット環境(PC-88SRやファミリーコンピュータ)では、膨大な武将データや新要素(昼夜システム、兵糧管理)を処理する負荷が増大し、全国規模のマップを維持するのは難しかったことだろう。
もう一つはテーマの焦点化で、信長周辺に絞ることで、本能寺の変や大名死亡時のセリフ再現のような歴史的事件をイベントとして組み込み、武将ドラマを強調したかったのだろう。
第三の要因としては、取材の難しさが挙げられる。日本全土の武将を網羅するデータ収集が現実的でない中、信長周辺に限定すれば、比較的資料が豊富な織田家や武田家、上杉家の家臣団に焦点を当て、質の高いデータ化が可能だった。
『戦国群雄伝』の武将名を見ると、この苦労の痕跡が垣間見える。たとえば、実名ではなく「官名」や「通称」が使われるケースが散見されるのだ。
たとえば「黒田孝高(如水)」が「黒田官兵衛」とされたり、「後藤基次」が「後藤又兵衛」と表記されたりするなどの現象である(もっとも今でも「森蘭丸」「鈴木佐太夫」「真田幸村」など後世の俗称が使われているものがある)。これは、今ならWikipediaでも見れば簡単に「答え」を探し出せるが、当時はそんな便利なものがない。
かろうじて小説に通称が確認できる範囲の登場人物を探し出して、元ネタを確認するのも困難な状況でこれを設定していく必要があった。
一部の人名は、史料で実名が明確でない場合に、光栄が推測や簡略化を強いられた結果と考えられる。『三國志』が正史と演義の裏付けで武将データを構築できたのに対し、『戦国群雄伝』は資料の不足を補う工夫が必要だったのだ。
コンピュータゲームとしての深化と改革
それでも、『戦国群雄伝』はコンピュータの「自動処理能力」を活かし、限られた範囲内で膨大な武将データを扱うことで、戦国時代の「人間関係のダイナミズム」を再現した。ボードゲームでは煩雑すぎる「人事」やリソース管理を瞬時に処理し、「昼夜システム」や「兵糧管理」で戦術的深みを加えた。これらは『三國志』にはない戦国時代特有のリアリティを打ち出した独自の進化である。...