
「戦国最弱」といわれることになる小田氏治は、初の本格的な野戦に負けると、本拠地の小田城ではなく、土浦城へとまっすぐ逃亡した。
ここから氏治の「小田城を奪われ、奪い返す」というパターンが幾度も繰り返されることになる。
海老ヶ島合戦のあと、なぜ氏治は小田城に向かわなかったのか。小田勢力圏の中にある城の防御力からその考えに迫ってみよう。
(1)小田氏治は「讃岐守」だったのか?
(2)武によって生き延びた父・小田政治の死
(3)上杉謙信と激闘した山王堂合戦(前編)
(4)上杉謙信と激闘した山王堂合戦(後編)
(5)天文15年2月4日の小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」(前編)
(6)天文15年2月4日の小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」(後編)
(7)初見文書に見る氏治の戦争準備
(8)海老ヶ島城の成立と制圧
(9)運命の海老ヶ島合戦前夜(前編)
(10)運命の海老ヶ島合戦前夜(後編)
(11)敗戦のダメージコントロール
・なぜ小田氏治は小田城に帰らなかったのか?
・過去の小田城
・小田城は弱くて構わない
・居城が弱いなら別の強い城を使えばいい
なぜ小田氏治は小田城に帰らなかったのか?
弘治2年(1556)4月5日、海老ヶ島合戦が始まる。
結論から述べておくと、ご存知の通り、小田氏治は惨敗した。そして氏治は本拠地の小田城ではなく、南方の土浦城へと撤退した。勝者の結城政勝たちは小田城の制圧に殺到した。
氏治の動きは小田城に入る余裕がなかったため、敗戦地からまっすぐ土浦城に逃れたとする解釈が一般的である。
ここからいわゆる「戦国最弱伝説」が始まる。
これ以降、氏治は何度も小田城を落とされて、また奪い返すという戦いを繰り返している。そのうち落城と呼べるのは3回、降伏は1回である。奪還した開封は2回である(表「小田氏治と小田城の争奪戦年表」参考)。合計6回の制圧に見舞われている。

わずか一代でこれほどまで本拠地を奪い合った戦国大名は、小田氏治以外にないだろう。
注目したいのは海老ヶ島合戦の敗戦後、結城政勝に占領された小田城をあっさり奪い返しているところである。越後国の上杉輝虎(謙信)に奪われたときは、1年以上も奪還できずにいる。
それでも氏治とその将兵たちは闘志を失うことなく、連戦を繰り返して小田城奪還に動き続けた。結果、自力で奪還を実現しているのである。
永禄12年(1569)の落城からは奪還できなくなったが、これは佐竹義昭と氏治が弱かったというわけではないだろう。周辺の状況が変わり、不利な情勢に追い詰められたということができる。
言い換えれば氏治ではなく、小田城そのものが最弱と言っていいぐらい弱かったのだ。
過去の小田城
もともと小田城は鎌倉時代初期(12世紀後期)に、常陸守護に任じられた八田知家が築いたものである。...