忍城跡(埼玉県行田市)

(乃至 政彦:歴史家)

小説『のぼうの城』の主人公・成田長親の伯父にあたる忍城城主・成田長泰。関東越山を開始した上杉政虎(謙信)にいち早く味方した有力領主だったが、ある事件をきっかけに仲違いし、合戦することとなる。今回はその事件の真相を、仮説をもとに解明する。

武蔵の忍城主・成田長泰

 武蔵の忍(おし)というところに、成田長泰(ながやすという城主がいた。『成田記』によれば、生没年は永正5年(1508)~天正4年(1586)で享年79とされている。という事は、上杉政虎(謙信)と因縁のあった永禄4年(1561)には54歳の老将だったことになろう。長泰は大ヒットした歴史小説『のぼうの城』の主人公で、映画では野村萬斎が演じた成田長親の伯父にあたる人物である。

 長泰は、この連載の第13回で書いたように、関東越山を開始した政虎のもとへ急ぎ駆けつけ、いち早く味方になった有力領主である。それがなぜか同年中、合戦するほど、関係が悪化してしまった。

 その原因はある有名な事件にある。成田長泰打擲(ちょうちゃく)事件だ。ここからは、13年前の大河ドラマ『風林火山』の第46話「関東出兵」で描かれたあの情景を思い起こしながら読んで欲しい。

長泰が鎌倉で受けた恥辱

 この打擲事件を、ごく一般的な認識に従って紹介したい。

 ──関東連合軍による小田原攻めの真っ只中、政虎が鎌倉で関東管領名代職を継承することにした。そのときのことである。長泰は、政虎の社参を馬上から見下ろしていた。成田氏は、八幡太郎義家の時代より、大将相手に下馬の礼を取らずにいて、その例に習っていたのである。

 だが、これを見た政虎は「無礼ではないか」と怒り出し、扇を振り上げ、長泰の頭を打ち、その烏帽子を叩き落とした。鎌倉中に集まる味方の将士はひどく驚いた。

 恥辱に震える長泰は家臣に向かい、「わしは1000騎を従えるほどの身分だ。それが人前で大恥をかかされた。許せぬ。忍城に帰るぞ」と伝えるなり、さっさと無断撤退してしまった。これを見た諸士も「政虎がこのような乱暴者では、将来どんな仕打ちを受けるかわからない。われらも引き上げようぞ」と、続々と撤退を開始。こうして政虎の小田原攻略軍は空中分解したのだった──。

 およそこんな話だが、あまりに現実離れしており、ツッコミどころが多い。とはいえ、いくらかは真実の可能性もあるだろう。そこで、この俗説を検証して、もう少し可能性の高い仮説に打ち直してみたい。そのためには、まず疑義のある部分を並べてみよう。

①なぜ成田長泰は下馬しなかったのか?
②上杉政虎が長泰を打擲したとして、なぜそんな暴挙に出たのか?
③この事件に、一次史料との矛盾はないのか?
④北条攻めの最中なのに、長泰ひとりの撤退だけで全軍解散するのはおかしくないか?

 長泰が「無礼」を働いたという内容は『甲陽軍鑑』や『北条五代記』『北越軍記』など、武田・北条・上杉の軍記ならびに『成田記』ほか名だたる史料で一致しており、積極的に否定する材料がないので、事実だと仮定しておこう。「無礼」の中身が下馬しなかったことにあるかどうかは確証がないが、仮にそうだということにして、まずは成田氏の祖先が、自分の大将に下馬の礼を取らなかったという話の実否から探ってみたい。

歴史ノ部屋
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①成田長泰が下馬しなかった理由

 結論からいうと、この下馬しなかった古例というのは、八幡太郎義家が生きた時代から近世までの史料を見渡しても、見つけることができていない。だからこの古例自体が、長泰の虚言かまたは後世に創作された作り話の可能性がある。

 最近のドラマや小説では、「政虎は、関東の古例も知らない不勉強な人物だった」とされることも多いが、この逸話の出どころと思われる北条方の軍記『北条記(異本小田原記)』[巻二]は、次のように記している。

「昔、源頼義(成田氏の先祖)と八幡太郎義家(頼義の甥)の頃から、成田氏は大将と一緒に下馬するのが習わしだった。[中略]だから長泰は馬上から政虎を見下ろしていた。政虎は激怒した。[中略]『頼義は義家の伯父だったから、そういうことも許された。だが、今はそうではないだろう』そう言って従者を遣わし、散々に痛罵させて馬から引き落とした」とあるのだ。つまり政虎は古例を知らなかったのではなく、「今と昔を混同するな。われわれは伯父と甥ではないのだから、そのような振る舞いをするのはおかしいだろう」とその無礼を咎めたのだ。

 では、なぜ長泰は「無礼」と言われかねない振る舞いをしたのだろうか。

 これについては上杉家の藩史『謙信公御年譜』に、注目すべき解釈が見える。

 ここでは、無断撤退のことを、長泰が「帰城の暇乞いもしないで、諸将に先立って密かに鎌倉の山内を立ち去った(帰城ノ暇ヲ不請、諸将ニ先立テ潜ニ山内ヲ退ク)」と記している。

 これを知った政虎は、かれは武蔵の者の中でも「誰よりも早く味方に属(諸将ニ先立テ味方ニ属)」した武将なのに、今どうして帰国したのかわからないと不思議がった。そこで編者は次のように推測している。

 長泰と同じタイミングで味方についた太田資正は「鎌倉ノ大警護」の役に、同じく長野業正は「拝賀ノ規式」の役に就いた。だが、長泰だけは「何ノ役儀」にも預からず、諸将と同じ座席を与えられた。イベントの主催者ではなく、参加者として遇されたのである。長泰は、周囲の目が痛くなったのではないかと言うのだ。

 わたしはこれを妥当な解釈に思う。当時の古文書(一次史料)を見ると、資正は鶴岡八幡宮に濫妨狼藉を禁じる制札を出し、治安維持の役を請け負っている。そして、長泰が何の役にも就いていなかったのは確かで、もし仮に何かの仕事を受けていたとしたら、打擲事件の所伝は、それを絡めた形で伝えられたに違いない。

 ここから、下馬しなかった話を組み合わせると、次の流れが考えられる。

 成田長泰は、晴れ舞台で手持ち無沙汰の立場に追いやられた。越後方の不手際だろう。そこで長泰は「古例」と称して、馬から降りないことで自らの面目を保とうとした。こうすれば参加者席でもほかの関東諸士より下ではないと誇示することができる。何せ自分は日和見することなく、迅速に政虎の味方となったのだ。ところがこれを見た政虎が怒り出し、打擲事件が勃発したのである。

②政虎が打擲した理由

 続いて、政虎が長泰を打擲した動機を考えてみよう。

 成田長泰は、ほかの関東諸士の風下に立たないよう工夫して、下馬しなかった。これには政虎よりも居並ぶ諸士を不快にさせただろう。そこで政虎は従者を遣わし、理由を尋ねさせたが、大きな口論になった。そこでやむなく政虎が現場に出向き、自ら出向いて打擲したのではないか。政虎は、長泰が自分を見下すポーズを取っていることよりも、言い訳にもならない理由でほかの諸士より上に立とうとするやり方が許せなかったのだ。

③一次史料との矛盾はないのか?

 ついで、一次史料との矛盾の有無を見ていこう。この事件はすべて二次史料(あとから書かれた軍記や系図などの記録)にだけ書かれていて、一次史料にはまったく書かれていない。もっとも歴史にはそんなことが山ほどあって、例えば有名な合戦の詳細は、ほとんど二次史料にしか記録がない。それでも二次史料によっては情報の精度が高く、一次史料との明らかな矛盾がなければ、仮説という保留つきで史実の項に並べていいものもある。

 さて、この事件と一次史料を比較すると、ひとつの疑義が生起する。

 長泰が無断撤退してから3カ月ほどあとの一次史料を見ると、長泰の幼い子供が政虎陣営に人質として確保されているのだ。人質がいるなら、普通は黙って戦場を抜け出したりはしない。すると、実際の長泰は二次史料と違って、何の問題もなく、政虎のもとにい続けた可能性がありうる。

 ここでその一次史料を少し見てみよう。同年6月10日付の近衛前嗣書状で、上野厩橋の前嗣が政虎に宛てて「成田の幼い身内が、昨夜(こちらに)参りました(なり田おさあいもの、ゆふへまいり候)」と書き送ったものである。ここから見て、長泰の幼い身内(おそらく息子)が人質として厩橋に移送された事実は動かない。

 だが、これだけで「長泰がこの時期まで政虎に人質を管理させているのなら、打擲事件は後世の作り話で、実際にはまだ上杉方の立場でいたのだ」というのは、早計だ。ほかの一次史料を見ても、政虎と長泰は同年中、すでに激しく対立して抗争する関係に陥っており、この時期に何らかの揉め事があったと考えるのが自然だ。だから、打擲事件を簡単に否定するべきではない。

 この人質について、成田家に好意的な二次史料は、成田家臣の手島美作守(=豊島高吉)が長泰の撤退と連動して、その末子・若王丸を救出する描写を施している。ただ、若王丸は逃亡途中、利根川に転落して溺死したという。おそらく実際には誰も救おうとしなかったのだ。しかし一般的な解釈だと、長泰が自分の息子を見捨てて退陣したことになってしまうから、具合が悪くてこのような物語を作り出したと考えられる。

 この想像を裏付ける軍記として、先にも示した『北条記(異本小田原記)』[巻之二]がある。こちらではこの手島高吉が通説と異なる動きを見せている。その内容を見てみよう。

 打擲事件のあと、長泰は夜のうちに「酒巻・別府・玉井以下千余人、忍の領地へ」と帰国した。この時、長泰の家老・手島高吉と長泰の次男は、政虎の人質として厩橋に置かれていたが、人質を管理する番人が、処刑の噂に青ざめる手島のもとへ赴いて、ある提案を告げた。

「是非ともあなた様をお助けしたい。ただし帰国後、あなたの所領5000貫のうち30貫をわたしに授けてくだされ」

 手島は喜んでこれを快諾したが、「長泰さまの息子も助けてやってくれ」と願った。しかし番人は「あなた一人でも危険なのに、そんな無理はできません」とこれを断った。手島はやむなく番人の言う通りに従い、厩橋城から脱出した。そして手島はこの番人を侍に取り立て、知行を与えた。いっぽう置き去りにされた長泰の息子は川に飛び込んで落命。これが理由で長泰と手島は激しく対立することになり、ついには「手島は成田の子息の氏長と一味して、長泰をば追出しける」ことになったという。成田氏長と組んだ手島が下克上を果たしたのだ。

 この下克上は史実である。氏長は永禄6年(1563)に長泰から家督相続を受けた。それから3年後、手島高吉と組んで長泰を追放している。のちに高吉の息子である豊島長朝は家臣筆頭の地位に登っている(『成田分限帳』を見ると、天正10年[1582]に「豊嶋美作守長朝」が「譜代侍」筆頭として「三千貫文」を知行)。

 すると、こういうことだろう。成田長泰の人質だった息子と手島高吉は、長泰が帰国したあとも人質として取られており、ほどなく高吉だけは長泰の息子を置き去りにして脱出に成功したのだ。ここで一次史料との矛盾は一応埋められそうだが、また別の疑問が色濃くなってくる。長泰はなぜ、息子と家臣の身を顧みず、退陣を決行したのだろうか。これは④のなぜ長泰の退陣だけで全軍が解散したのかと併せて見直してみたい。

④人質を見捨てた長泰と解散の理由

 実は長泰もどうやら黙って退陣したわけではないらしい。荒ぶる関東武士として、そんな子供じみたことはせず、もっと積極的な行動に出た。政虎を暗殺しようとしたのである。

 この様子は上杉政虎の一代記『松隣夜話』を始めとする複数の文献に見られる。おそらく江戸時代以前に描かれた軍記で、同書の長泰は、当時の関東武士の思考そのままに動いている。

 まず、政虎に打擲された長泰は、その夜に政虎を暗殺しようと企んだ。「足軽を掛け夜軍にし討て根を報せんと企て」たのである。暗夜の襲撃を、政虎の家臣と太田資正が迎撃する。追い散らしはしたが、闇の中なので長泰本人の居場所がわからない。長泰は続けて小荷駄を狙い、あっという間に重要な兵糧をほぼすべて奪い取った。兵糧がなくなったら、継戦能力は失われてしまう。政虎が「しまった」と思ったところで、もう手遅れだ。長泰は一撃離脱のゲリラ戦で、一夜のうちに連合軍を解散間近に追い込んだのだ。

 政虎と長泰は翌日も激しく争ったが、決着はつかなかった。長泰は暗くなる前に姿をくらませた。政虎は兵糧を奪還できないまま、長泰を取り逃してしまった。ここまで長泰は政虎に勝つつもりで動いていたため、人質のことなど一切顧みずに決起したのである。

政虎暗殺未遂→連合軍崩壊

 ここまで事件の背景を探り直してみると、その内容は『風林火山』で描かれたような面白エピソードから、歴史事件のリアルとしてその様相が生まれ変わってくる。

 打擲事件後と連合軍は、もともと仇敵同士である味方への不信感が募っていた。そこに兵糧の欠乏という深刻な事態に直面し、帰国を決意した。しかも間の悪いことに、関東では疫病が大流行していた。諸士一同、小田原攻めを切り上げて、領民の無事を確かめたかったに違いない。

 こうして政虎の左右には、太田資正と里見義堯以外いなくなった。みんな自国へ逃げ帰ったのだ。これでは戦線を維持できない。小田原攻めを諦めた政虎は、厩橋城へと撤退を決意する。そこへすかさず北条軍が襲いかかる。この時に政虎が詠んだという狂歌が、今日に伝わっている。

「味方にも敵にもはやく成田殿 長康(泰)刀きれもはなさず」

 これは「味方にも敵にも早くなりたがる。長くて安いだけの刀は、切れも悪い(手切れしたはずの北条にまだ未練がある)」と長泰を見下す内容だろう。それだけ悔しい思いをしたに違いない。長泰の離反は、政虎の戦略を大きく後退させることになった。

乃至政彦『歴史の部屋』

 

『謙信越山』の著者による歴史コンテンツ。待望の新シリーズ『謙信と信長』をメールマガジンで配信。さらに戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介する音声または動画がお楽しみいただけます。

 

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