(1)企業規模から理解する戦国武士☜最新回
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
はじめに
惟任(これとう)光秀こと明智光秀は、成長し続ける武将だった。
光秀はもともと美濃土岐頼純の警護兵である。馬もなければ、城もない。一介の徒士であった。いわば《足軽》の一種である。
もちろん雑兵や農兵の類ではなく、歴然たる武士の身であったが、家臣と呼べる者は1人ほどしかいなかった。光秀が20歳の頃、斎藤道三が主君の土岐頼純を毒殺した。その道三も息子に殺され、光秀は美濃を出奔した。その後の光秀は最下層の《牢人》生活を送った。
しかし光秀が40代の頃、彼の運命は大きく変わっていく。朝夕の食事すら覚束なかったものが、幕臣細川藤孝の中間となり、さらに信長の抜擢を受け、築城に、行政に、合戦に、計策に、比類なき勲功を重ねていく。
それが織田信長と接することで一城一国の大名にまで出世して、人々を《前代未聞の大将》と驚嘆させた。これほど大きな運を摑むには、確かな腕力が必要だ。
一般的に、光秀が出世できたのは、上流階層の生まれで、彼が礼儀作法・教養・武芸の文化資本に恵まれていたからだと見られている。だが、このイメージは不正確な文献と、史料の誤読から広まったものだ。
ドラマや小説などの創作物が、百姓生まれの羽柴秀吉をライバルと対比するべく、光秀を成り上がり者ではなく貴族的な人物に造形したため、こうした人物像が定着した。
しかし、近年の研究では、光秀の技量と才覚は自らの努力によって培われたことが見えてきた。本記事は、物語や伝説の光秀ではなく、史実の光秀を掘り起こし、その成功と失敗の本質を解き明かしていこう。
そこからはとても刺激的な人間の姿が浮かび上がるに違いない。ただ、わたしは経営者や起業家ではないので、あえて身の程を弁え、歴史から何を学ぶべきかを具体的に唱える僭越は避けるつもりでいる。
皆さん方はすでにリーダーたるべき人として、良き友人や隣人との対話、刺激的な同業者の観察を通し、彼らから見習うべきこと、反面教師とすべきことを見極める術を習得しておられることと思う。
したがって、ここでは日常で絶対に会うことのない歴史偉人の姿を、ビビッドに浮かび上がらせ、その真髄に触れ合える機会を提供できれば本望である。
戦国武士の立場
歴史作品を愉しみながら、学ぶ。これができたらどんなに楽しいことだろう。まず最初にこれさえ知っておけば、クリエイター以上に歴史作品を愉しみながら、大いに学びを得られるという話をしておきたい。
中世武士(侍)というのは簡単にいうと、事業主である。なぜなら必ず従者(従業員)がいたからだ。
複数の城を持つ戦国大名は、今でいう大企業の社長である。小さい城主(領主)は、今でいう中小企業の社長だった。城のない武士でも従者が1人以上いれば、事業主として認められた。さらに言うと、戦国末期まで「牢人」ですら事業主の身分だった。逆に言えば、従者が1人もいなかったら、武士とは認められなかった。
ドラマや映画で牢人が、1人歩きするシーンを見たことがあると思う。戦国末期から江戸時代ならそういうこともあったが、中世だとあり得なかった。1人以上の従者がいなければ牢人でも武士とは認められなかったからだ。だから中世武士が従者なしに闊歩しているフィクションがあったら、それは史実の姿ではない。間違いである。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀も、越前時代に牢人生活を送っている。しかし史実の光秀は牢人時代に1人だけ従者がいたことがわかっている。
武士たるもの自分と家族だけでなく従者も食べさせてやらなければならなかった。そうしなければ、従者は再就職先を探して逃亡するかもしれない。もし従者がいなくなり、自分1人になってしまったら武士失格である。
光秀もそうした危機感があったのだろう。そこでただ武功を立てるだけでなく、他の収入源を確保しようと勉強したようである。牢人時代の光秀は、僧侶たちと交わることで、薬学の知識を習得している。光秀は、武芸だけでなく、医師の腕を使って生きることも考えていたのだろう。
新しい用兵と軍制
ここから武士が事業主だったという認識を応用して、少し当時の戦争と軍隊について考えてみよう。...