(乃至 政彦:歴史家)
上杉謙信が遠征を行うまで、関東を主導していた北条三代。幕府奉公衆の名族・伊勢氏出身である彼らは、公方という旧き権威を重んじていた。その公方の横暴による河越合戦に北条氏康が圧勝したことにより、それまで反抗的だった関東の領主たちも北条氏に靡いていく。ここに関東の天下は決まったかのように見えたが・・・ 。
謙信登場前の北条三代
上杉謙信が本格遠征をするまで、関東情勢はほとんど北条三代──伊勢宗瑞(北条早雲)、北条氏綱、北条氏康──が主導していた。かれらはいずれも並ぶ者のない戦功を挙げることで、敵対する旧勢力を排除または屈服させて、その秩序を塗り替えようとしていた。
ここまで北条氏が辿った道は、その後の織田信長に通じるものがある。例えば、尾張国の奉行から台頭した織田氏が大名となり、地盤を固めていく成り上がりぶりは、東国で現地と関係ない伊勢宗瑞が勢力を広げた様子に似ていなくもない。
信長は地方に勢力を拡大すると新たな将軍として足利義昭を奉戴し、畿内平定に尽力した。これは氏綱が古河公方を推戴して、関東平定に尽力した点によく似ている。なお、信長の戦略と行動は、
信長の天下布武
わかりやすいところでは、かつて信長の《天下布武》は「天下を武力で統一する」と宣言する意味で読まれてきたが、近年の研究では「畿内に幕府を再興する」という意味ではないかと問われている。
信長は私利私欲ではなく、幕府再興を信じて邁進したというのである。この裏付けとして、はじめ信長は京都政治にとても消極的だった。あくまで室町幕府を外護する地方大名として、道義と節度を重視していたのである。このように信長は武田信玄などと違い、戦国大名として自分自身の成功を夢見ていたのではなく、幕府を中心とする旧秩序を回復する側の大名で、戦国時代を否定する側に位置していたと考えられるのである。
どうやら信長は、上杉謙信タイプの武将だったようである。そう考えてみると、当時は領土拡大より、こうした旧秩序を重視する大名の方が普通だった。信玄のような戦国大名らしい戦国大名の方がイレギュラーだったのである。
ただ、信長は万事につけて粗雑だった。その気質も激しすぎた。幕臣と織田家臣の混成組織を未整理なまま、適当な天下運用を行なっていた。将軍が政治の意見調整を苦手とすることも、両確執を生んだ。やがて信長は将軍と対立して、ついには家臣たちの意見に押されて、義昭を京都に戻れないようにしてしまった。信長の不幸は、自分が命がけで支えてきたはずの将軍に見限られたことにあろう。
そこで北条氏綱・氏康である。
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北条政権と伝統的権威
これまでの本連載を振り返って貰いたい。実は北条氏も東国で未来の信長と同じことをしてきた。京都に将軍がいたように、関東にも古河に公方がいた。
氏綱は古河公方とその一族を大いに尊重していた。公方から「小弓御所の偽公方を討て」と命じられると、「小弓公方さまも自分にとっては高い身分のお方です」と戸惑いを覚えたが、それでも主命に逆らえず、これを討ち取った。ただ、氏綱は信長と違い、公方から「わが身内となってほしい」「正式の役職について我らを支えてほしい」と要請されると、これを断れなかった。
このとき信長は「さすがに恐れ多い」とばかりに、将軍の一門になることや、副将軍の地位に昇ることは避けた。だが、氏綱は主命ならお受けするしかないと思ったのだ。もとを辿れば北条一族は、田舎大名の織田と違い、幕府奉公衆の名族・伊勢氏出身である。だから公方の申し出を「身分違い」と拒絶することはできなかったのだ。
氏綱の後妻が、関白・近衛稙家の姉であることからも察せられる通り、北条氏は伝統秩序を軽視したりはしない。荒れ果てた鎌倉の鶴岡八幡宮を造営せしめたのも氏綱だった。旧き権威を政治と理念の拠り所としていたのである。
とはいえ、不快に思う者も少なからずいた。関東の伝統的領主たちである。かれらにすれば、他国出身の北条一族が、関東随一の勢力になり、しかも公方から破格の待遇を受けるのを、喜んで見ていられるはずがない。そこには危機感や嫉妬心があったかもしれない。
このことは氏綱も気にかけていたらしく、その遺訓に「大将によらず、諸侍までも義をもっぱらに守るべし」と固く言い残している。人のプライドを傷つけている自覚があればこそ、自分たちの身の律し方を厳しく戒めたのだろう。
北条氏康は亡父の遺訓を心に深く刻みつけたらしい。公方や伝統的権威に対して、配慮に配慮を重ねていた。だが、あるとき、公方たちの横暴に耐え兼ねる事態が現出した。氏綱とは違う独自の義を示さねばならなくならなくなったのだ。
天文15年(1546)の河越合戦である。これが関東管領・上杉憲政が主導したというが、実態は公方とその側近たちが企てた合戦だったことは前回述べた。氏康にすれば公方には代々忠節を尽くしてきたのに、身勝手な側近たちの意見に押し切られて、自分を関東秩序から排除しようとしたばかりか、城内の将士を皆殺しにしようとしたのが許せなかった。
腹を据えて公方と決戦した氏康は、多数の側近衆を討ち取り、これに圧勝。すると、関東諸士は一気に北条方に靡いていった。以降、氏康は公方のみならず、かれら諸士に対しても強面の姿勢を通していく。ここに関東の天下は決まったかに見えた。
関東諸士の画策
ただ、諸士の服従は、多くが形ばかりのものである。隙さえあれば、いつでも鞍替えしてやろうという不満がかれらの中に渦巻いていた。かれらにとっての問題は、そのチャンスがないことだった。関東管領であるはずの上杉憲政は、相次ぐ敗戦で兵を失い、すでに実力はない。安房国の里見義堯や常陸国の小田氏治も、単独で北条氏康の勢力と向き合える戦力がなく、盟主となるほどの求心力も備えていなかった。
これを憂えたのは、やはり公方の側近衆であった。特に不満を持っていたのは、宿老の簗田晴助である。かれは氏康から強く警戒されて、居城の移動まで強いられた。簗田氏が拠点とする関宿城は、水運の要衝で、大きな経済的利権があった。ところがこれを「公方さまの古河城と入れ替わってもらいたい」と氏康に取り上げられえしまう。梁田氏の反北条活動を抑止するのが狙いなのは明白だった。
なおそれでも公方とその息子は、氏康への「謀叛」を企み、またしても鎮圧された。信長ならそれで追放しただろうが、公方の息子は氏康の甥だった。身内を追放することはできない。そこで氏康は、政治圧力を幾重にも張り巡らせ、その余力を奪うことにするほかなかった。
こうして北条政権は、王道フェイズを外れざるを得なくなる。覇道フェイズに移行したのだ。それが氏康本人にとって不本意であるかどうかなど、反北条派には関係がない。北条氏が覇権を確立する動きを見せていることが重要なのだ。これを口実に形成逆転のチャンスがあるかを考える者がまだいた。
その頃、氏康の攻撃に辟易する上杉憲政は、すでに越後国へ亡命していた。公方側近の簗田晴助や、謀将の里見義堯らはその動きを見逃さなかった。
憲政を庇護するのは、長尾景虎である。まだ若い景虎は、伝統秩序に理解が深い。弱者にも優しい。信仰心が篤く、義侠心に富んでいる。合戦の腕前は、川中島で実証済みだ。関東に招き入れるのに、これほどの人物はいない。ただ、短気で横暴なところがある。
この点を除けば、この若者はかれらにとって理想のキーマンとなり得そうだった。
謙信越山前夜
関東の情勢は、今まさに嵐の一歩手前にあると言えた。
氏康は田舎びた関東の地を綱渡りのように何とか平らげていたが、これから先のことはまだ見えていなかった。落ち着いたら公方の忠臣に立ち返り、王道路線に戻るのが理想的だっただろう。だが、そうもいくまい。関東には不満分子がまだどれだけ隠れているかはっきり見えないからである。いつ何が起こってもおかしくない。
今は公方外戚としての立場を活用して、覇道を突き進むのが望ましい。これを野心と批難する者がいるだろうことは、氏康自身が身をもって学んでおり、これを恐れたり省みたりするより、眼前にある百姓万民のための政治を考え、後世に託すに相応しい体制を築くことを是として、理想の体現に努める覚悟を固めていったのだろう。
外に向けては、すでに関東の公方を足利晴氏から次男の義氏に交代させている。義氏は氏康の甥だった。これで表向きの仕組みは、とりあえず整っている。内に向けては、撰銭の規定を決め、さらに目安箱を設けることで、民政の基礎を固めていた。このように氏康はモデルなき路線を歩むにおいて、可能な限りの最善を尽くしていたのだ。
ただ、関東はそれでも平穏ではなかった。打ち続く関東諸士同士の抗争、3年もの長きにわたる疫病と飢饉の流行──。これらに伴い、氏康には民政軽視の悪評が立っていたようだ。
もちろん、これらの責任は氏康にあるはずもない。むしろ伝統権威や領主および庶民のために善政を心がけていたが、「親心子知らず」の言葉にある通り、為政者や事業主の人情や遠望が、対象にそのまま伝わることはとても少ないのだ。その善意が、さかさまの悪意で曲げられることもあったらしい。
その最中である永禄2年(1559)12月に、氏康は息子の氏政に家督を譲って引退することを表明した。さらに翌年、徳政令を発して、民情の安定化を図った。
氏康の心境ならびにその政治的意図は不明だが、ここまでやるべきことをやり遂げた気持ちがあったのかもしれない。
だが、氏康はまだゆっくり休むことを許されていない。誰が許していないのか。それは敵であり、味方であり、万民だった。“向こう傷”の氏康もおのれが運命から逃げることを許しはしないだろう。
運命の謙信越山は、永禄3年(1560)より開始される。
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