信玄上洛
(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言 ☜最新回
・破綻した西上作戦
・信玄と天下取り
・『甲陽軍鑑』に見る信玄の野望
・勝頼への遺言
武田信玄の「西上作戦」は、上杉謙信の連合軍不参加により停滞することになった。ここから信玄が武田勝頼を「陣代」にした理由が見えてくるだろう。戦略の破綻を察した信玄は自らの死後、勝頼に謙信を改めて味方へと引き込み直させ、織田信長対策の布石を打つよう指導したのだ。
破綻した西上作戦
武田信玄の西上作戦は、将軍である足利義昭を織田・徳川連合から離反させ、朝倉義景・浅井長政・本願寺方の陣営に転属させることが重要であった。こうすれば、強敵である上杉謙信が味方につき、東国の大名が長年求め続けてきた「武田・北条・上杉連合」が実現する。ここでもし幕府再興を目標とする謙信を同志にできれば、心強いことこの上ないはずだった。
ところがその歯車は思いのほか噛み合わず、信玄の目論みは頓挫する。
将軍の言うことならなんでも聞いてくれるだろう謙信が、大義よりも信義を重んじ、将軍ではなく信長との関係を重視したからである。なぜだろうか。
当時の外交状況を見てみよう。それまで武田信玄は徳川家康とギクシャクしていた。しかし家康の盟友である織田信長とは友好関係にあった。また、信玄は謙信と戦争中で、将軍と信長が、両者に講和するよう呼びかけていた。そんな中、信玄は信長との友好関係を逆手に取って、徳川領へ侵攻した。油断していた家康は、たちまち窮地に陥った。
信長はこれに仰天した。将軍とともに、謙信と信玄の関係修復を斡旋している最中だったからである。信玄がこちらに耳を傾けていたのは演技だったのかと怒りに震える信長は、謙信に「侍の義理を知らない信玄とは、永遠に仲直りしない」と宣言して、上杉家との軍事同盟を強化することにする。謙信も信長に合意した。
こうして急遽誓紙を交わしあったばかりなので、信長を裏切るという選択肢など謙信にはなかった。その頃、信玄は将軍を調略し終え、将軍公認の陣営となることが決まった。また、信長に圧力を加えるべく美濃東部に配下の部将を派兵させた。
西上作戦の最終仕上げは、ここで謙信がこちら側に転属することにあったと見られる。...