【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮 ☜最新回
  ・上杉謙信という男
  ・上田原合戦と川中島合戦
  ・川中島合戦の勃発
  ・宗心への改号と受戒
  ・宗心の憂慮
  ・第二次川中島合戦
  ・宗心の出奔と帰国

上杉謙信という男

 さて、ここから上杉謙信の簡単な経歴を述べていきたい。

 謙信のイメージが薄かったり、歴史知識に自信がなかったりする人たちにも理解してもらうため、その事績を時系列に並べていくより、謙信という人間の思考や人格を主軸に置いて、その活動を概観してもらう。多分に主観的であるかもしれないが、上杉謙信研究家(※)を称して以来の観察蓄積に基づく認識で、拙著『上杉謙信の夢と野望』『戦国の陣形』『戦う大名行列』などで探索し、披露した謙信の一側面から読み解いといてきたところが多いことを付言しておく。

※ 平成25年(2013)、NHK地上波の『歴史秘話ヒストリア』「上杉謙信の折れない心」における肩書き。

 上杉謙信という男は、まず他者からの自主的な協力と支援を集めることをとても好んだ。

 これは兄から受け継いだ謙信が、守護なき守護代として政権を構築し、高度の成果を見せたことからも理解されよう。謙信は、公的な正当性をほとんど獲得することなく、越後一国を統治する実力があり、それは何と言っても、多数の国内領主たちからの支持である。

 確かな支持を得るには、自分個人の人気と大義名分が必要である。

 謙信個人の気質が、この状況に適合していた。世人からの声望を集めるべく、正しい戦争と正しい政治を実践することを好んでいたので、長年権力闘争に明け暮れて統一を果たせずにいた越後の領主たちにとり、まさにうってつけの人物であった。

 こうして、上杉謙信こと長尾景虎が越後に君臨を開始する。

 もちろん国内には景虎を支持しない者もいた。例えば、越後上田庄に蟠踞する長尾政景(関東山内上杉家臣)である。景虎たちから人質を差し出すよう要請されてこれを断った結果、すぐに軍事的圧力を受けて膝を屈した。

 さらに他国でも景虎を排除したいと考える勢力もあった。その筆頭が武田晴信である。晴信は、甲斐だけでなく信濃一国を手中に収めるべく活発に動いており、村上義清など知行地を逐われた信濃の領主たちは越後に亡命して、景虎に支援を求めた。

 安全保障上、晴信の北信濃進出は黙止できない。また、大将たる者が、自分を頼ってくる者たちを無碍にすることもできない。特に晴信は理由もなく他人の領地を奪い、神社仏閣を破壊しており、これを認めることは、自らの信仰心や義侠心に悖る行ないである。

 ゆえに景虎は晴信との対決姿勢を明らかにした。

 ここに第一次川中島合戦と呼ばれる闘争が勃発する。

上田原合戦と川中島合戦

 景虎は春日山城まで逃れてきた村上義清に、晴信への対策を尋ねた。かつて義清は天文17年(1548)2月14日に、晴信の旗本まで馬上乱入して、総大将たる晴信その人に刀傷を負わせる戦果をあげていたからである(上田原・塩田原合戦)。...