信玄上洛
(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで ☜最新回
・相越大戦の勃発
・古河公方・足利義氏の不安
・関東情勢一変する
・急拵えの新体制
・上杉政虎の帰国
相越大戦の勃発
永禄3年(1560)3月26日、長尾景虎が動き出す。
攻めたのは越中だった。景虎は武田信玄に内通する神保長職を打ち破り、同月末富山城を制圧する。景虎が帰国すると、吉報に喜んだ上杉光哲(憲政)が長尾政景を介して「凱旋した勢いで関東に越山してもらいたい」と伝達した。実は同年1月中、北条軍が里見義堯・義弘父子が拠点とする房総の久留里城攻めに着手していたため、里見家からの援軍要請があったのだ。景虎はすぐに軍役の調整と、要害の普請を進め、越山準備に取りかかる。
ここへ驚きの展開が起こる。同年5月19日には桶狭間合戦が勃発し、尾張織田信長が駿河今川義元を討ち取ったのだ。前代未聞の凶報に義元の盟友である武田・北条は戦慄を覚えたことだろう。景虎たちにすれば、またとない天佑であった。
8月下旬、越山した景虎が上野に入り、これを一挙に制圧していく。9月上旬までには北条康元が在番する沼田城を攻略、そのまま光哲の分国上野一国を奪還した。
景虎は檄文と将軍御内書の写しを持たせ、関東中へ走らせる。
上野・武蔵の諸士が景虎のもとへ参集する。また光哲自身も越山して、厩橋城の景虎と合流した。館林城に参集する友軍も大変な数で、兵が城中に収まりきらなくなるのではと危ぶまれるほどだった。
越山の名目は、上杉光哲の失地回復と安房里見家の支援にあったが、もちろんここで進軍を止めるつもりはない。
安房から武蔵へ矛先を向け直し、河越城まで移動した北条氏康・氏政父子であったが、ここで後退を決断する。
一方、京都の近衛前嗣は9月18日までに朝廷に暇乞いし、弟の聖護院道澄(どうちょう)、家礼の西洞院時秀、友人の岌州(きゅうしゅう)上人を連れて京を出た。いよいよ景虎の支援に乗り出してきたのだ。
10月、武田信玄は大坂の本願寺顕如に、加賀・越中の一向一揆を蜂起させ、越後を攻めるよう要請するが、関白一行は、危険に晒される北陸道をものともせず、越後に到着する。
景虎は一行の到着を待ちながら、厩橋城で年を越した。