『戦う大名行列』web版 目次
はじめに
【序章】軍隊行進だった大名行列
【第1章】領主別編成と兵科別編成 ☜最新
  
武⼒編成の変遷
  ・編成の主体は領主か兵科か
  ・最初期の武⼠
  ・中世の領主別編成
  ・領主から城主になっていく武士たち
  ・戦国⼤名の権⼒と軍隊

武⼒編成の変遷

 中世の武⼠は、⾃分の部隊だけで戦える編成を常⽤していた。領主別編成である。

 その後、近世⽇本に兵科別編成が登場することになるが、これらは諸兵科連合部隊とも呼ばれるように複数の兵科が連合して戦うための武⼒編成である。

 先例として、紀元前四世紀のマケドニア軍がある。これは⼸⽮による射撃を主体とする軽歩兵が前列にあり、ついで騎兵部隊に側⾯を掩護された重歩兵のファランクスが敵陣中央を攻撃し、騎兵隊が敵の側⾯や後⽅を衝くものだった。(田村2016)。

 兵科別編成は古代国家では当たり前のもので、律令制時代の⽇本でも使われていた。

 それが中世の武⼠政権時代には、領主別編成⽅式に主流を奪われてしまい、近世に近づくとまた兵科別編成へと改められていく。変遷の背景には軍隊構成の根本思想が変わってしまったことがある。

 流れを⾒るためにはまず中世の武⼠の進化する姿を概観していく必要があるだろう。本章では武⼠の軍隊が成⽴する経緯を概説していこう。

編成の主体は領主か兵科か

 領主別編成は領主が⾃らの領⼟から⾃由な⼈数と⾃由な武装をした 私兵を連れ(もちろん⾃分が戦いやすい武装と⼈数を揃えている)、 それが誰からも解体されることなく戦闘へ加わる⽅式の軍隊である。

 ⼀⽅、兵科別編成はそうではなく、上位の権⼒者が領主が連れてきた兵を取り上げて、あらかじめ計画していた隊形へと再編する⽅式の軍隊をいう。今⽇の諸兵科連合のような⽤兵思想ありきの編成である。

最初期の武⼠

 ⼀般的な理解として、武⼠の軍隊構成はおよそ次のような変遷をたどったとされている。

 まず武⼠が登場する以前、律令制時代の⽇本は、中国・朝鮮との緊張関係から、⼤陸の軍隊と⽐肩しうる画⼀的な軍隊を創出しようとした。そこで密集隊形が導⼊された。

 五⼈隊⻑や千⼈部隊など、五進法による隊伍と隊列が整備されたのだ。そこで⽇本では中国式の編成⽅式をそのまま継受することにした。

 当時の軍隊構成を伝える『養⽼令』の宮衛令によれば、「⼀隊」は「先鋒」25⼈と「次鋒」25⼈の2陣、合計50⼈で構成されている。

 さらに軍防令の「軍団大毅条」には、「軍団は⼤毅が1000⼈を統率し、少毅がこれを補佐する。校尉は200⼈。旅帥100⼈。隊正50⼈」とあるが、唐(中国)の軍令にも「校尉が衛⼠200⼈の団を有し、隊正は50⼈の隊を有する」という同式の軍制 (『唐令拾遺』)があり、これをそっくり受け継いだことは間違いない。

写真を拡大

 だが、⽇本は軍隊の強化と並⾏して対外関係の改善に努め、中国や朝鮮との全⾯戦争を回避することに成功した。こうして仮想敵国を失った律令制⽇本の軍隊は、その⽭先を⻄側ではなく東側へと転じる。そこには蝦夷があった。

 律令制の軍隊は蝦夷への侵略を進めるが、ひとつの壁に突き当たる。蝦夷軍が単⼀国家ではなく、各地に点在する武装勢⼒の連合だったのだ。

 蝦夷軍は少数精鋭の散兵である。これと戦うには、密集隊形へのこだわりを捨て、散兵であたるのが望ましい。

 そこで⽇本は新たに健児を主体とする軍隊を作り出す。

 宝⻲11年(780)3⽉の『続日本紀』に「殷富百姓才⾝堪⼸⾺者」(⼸⾺を使いこなせる富裕な地主)と記される彼らは、官製の訓練を施されたマニュアル通りに戦う普通の歩兵ではなく、現地で⼒をもつ富裕な百姓からなる少数精鋭の騎兵であった。

 今でいうなら、資本家としての不動産などによる所得があって、豪邸に住み、⾼級スポーツカーを乗り回し、スポーツジムや道場に通うような強壮の⺠間⼈である。

 ただし古代の富裕な百姓たちが乗り回すは、スポーツカーではなく軍⾺であった。

 バッドモービルを乗り回すブルース・ウェインのような武装する資⾦と鍛錬する時間を得られし者たち。それが武⼠の前⾝である。

 彼らはもともと特権的な階級にあったがゆえに、貧しても「武⼠は⾷わねど⾼楊枝」とうそぶいたのである。

 その後、⽇本は保元元年(1156)の乱により「武者の世」を迎えることになる(『愚管抄』)。

 こうして⽣まれた武⼈社会は、六波羅探題→鎌倉幕府→⾜利幕府→戦国⼤名→豊⾂政権→徳川幕府などとその主体を変えながらも中世から近世までを⽀配した。武家政権の時代である。その過程で、武⼠の軍隊はその構成を何度も改めた。

 武⼠は、私領を有する富裕層が、私兵を連れて、私闘を⾏う武装勢⼒として⽣まれた。

 武家政権は、朝廷が武⼠の代表機関である幕府をコントロールする体裁によって政体が保たれた。

 朝廷の視点で⾒れば、武⼠の闘争はどれも内々の私戦で、例えば天下を揺るがした源平騒乱(12世紀後期)や、関ヶ原合戦を中⼼とする慶長庚子の⼤乱 (16世紀末)も、国家規模で俯瞰すれば、単なる軍閥同⼠の内輪もめであった。

 武家政権を確⽴させた源平騒乱は、中⼩規模の私戦が積み重なることによって源⽒側が平⽒政権を討ち滅ぼしたものだった。

 元寇の戦争でも戦闘を主導する武⼠たちが⾼名な⽤兵家によって統制されていた形跡がない。

 彼らは、国家のために誰かに命じられたまま⼀⽷乱れず進退するのではなく、「⼸⽮の道、先をもって証となす。ただ駆けよ」と喚呼して、勇気を振り絞り、⼒を合わせて、異国の軍隊を追い払ったのである。

中世の領主別編成

 ところで、このときの武⼒編成は、「領主別編成」が基本とされていたことが指摘されて久しい。

 領主別編成を簡潔に要約すれば、領主である武⼠(侍階層)が私領から⼀族郎党を中⼼とする私兵を連れてきて、それをそのまま⾃分で指揮して、戦闘をするための編成である。...