【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎 ☜最新回
  ・川中島合戦
  ・旗本と旗本の戦闘
  ・勝利の方程式
  ・政虎と信玄の一騎討ち

川中島合戦

歌川国芳「武田上杉川中嶋大合戦の図」

 永禄4年(1561)9月10日、信濃北部の川中島で上杉政虎率いる越軍と武田信玄率いる甲軍が激突した。合戦の詳細を見ることができる根本史料とするべきは武田信玄の遺臣が初稿を書き、その後継車たちが補正加筆した『甲陽軍鑑』である。

 また、ほかに参考とすべき文献として西国の戦国史を描く『陰徳記』と、『松隣夜話』を挙げられよう。『陰徳記』は慶長18年(1613)生まれの香川正矩という上級武士で、そこに川中島合戦の項も見えるのだが、18世紀成立の軍記ではおそらく最初期の川中島記事となる。

 『松隣夜話』は成立時期不明だが、タイトルが上杉憲政家臣の小林松隣の号名を冠しており、また『甲陽軍鑑』の川中島合戦内容は、なぜか越後視点の描写があって、その部分は初稿を継承した春日惣次郎らが上杉家に亡命して、佐渡で書き上げたものと思われ、内容の多くが『松隣夜話』であり、かつまたその内容を相対化を試みる文章が見えることから、同書を参考にした可能性が考えられる。

 成立時期としては、『松隣夜話』、『甲陽軍鑑』、『陰徳記』の順番と見なしていいだろう。これに加えて後世の米沢藩で編纂された上杉家の正史『謙信公御年譜』も参考とすべきである。これらは内容の一致しない部分も多いが、その差異がどのようにして生まれたのかを探求することで、消去法的に問題のある記述を削っていくことができ、早朝より戦われた政虎と信玄の戦闘をある程度復元することができる。

 ただしこれまで川中島合戦について各所で私見を述べているので、ここでは要点のみを記述することにする。

 川中島合戦は、上杉政虎が初めて自らの念願を達成した会戦であった。

 その念願とは、武田信玄の旗本に自らの旗本を直接ぶつけて、叩き壊すという戦法の実現である。もちろんその目的は、壊乱した信玄旗本の奥に控える信玄その人を討ち取ることにあった。

旗本と旗本の戦闘

 政虎が自らの意思で積極的に旗本同士の対決に持ち込んだことは、『甲陽軍鑑』に記述がある。政虎はわざわざ諸隊の全てを、武田諸隊に接触させて、全軍を足止めさせた上で、旗本による攻撃を加えている。

 しかし、なぜ旗本に旗本をぶつけようとしたのか、その意図は記されていない。そうするからには、双方の旗本が拮抗する戦力であってはいけない。そんなことをやってもし政虎が破れたら、その面目を完全に喪失するからである。...