【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場 ☜最新回
   ・三国同盟の破綻
   ・三和の破綻
   ・越相同盟の締結と疑心
   ・上杉景虎の立場
   ・謙信と軍役

三国同盟の破綻

小田原城 写真/アフロ

 上杉輝虎の関東越山が停滞の色を深めるなか、足利義昭(秋)から輝虎および北条氏政へ宛てて、かの国と甲斐の武田ならびに相模の北条と「三和」を遂げて、自身の上洛に尽力するよう要請が入ってくる。いわゆる“越甲相三和”である。

 永禄10年(1567)8月、輝虎と武田信玄は信濃に軍勢を催すが、信玄はやはり積極的攻勢には動かず、塩崎あたりまで出た程度で慎重に時を過ごした。いっぽう輝虎も飯山城などの防御拠点を固めるまでに留めて、10月1日に越後へと帰国した。

 同月16日、信玄の後継者であった武田義信が東光寺で自死する。信玄は家中に義信を立てて反逆を企てる者たちの存在を看守して、粛清と統制を進めていたが、最終的な落とし所として、主犯格である長男本人の自死が必要となったのだ。

 翌年(1568)3月、その信玄に内通していた越後奥郡の本庄繁長が反旗を翻す。輝虎が越中に出向いていたタイミングであったが、上杉と武田の両軍が信濃に出ている時なら、輝虎を挟撃できたかもしれない。

 この頃、信玄も輝虎との和睦を希望しており、仲介を依頼された織田信長が、その夏、輝虎の重臣と輝虎本人に宛てて、その旨を伝えている。ところが信玄は和戦両用の筋を固め、本庄繁長だけでなく、越中の反輝虎勢力を煽って、その身を窮地に追い込もうとしていた。

 信玄得意の威迫であるが、義信の事件があったことで、自分から頭を下げるという弱腰姿勢を内外に見せられない状況だったのかもしれない。誰からも侮られることなく輝虎と和睦したいため、自分に被害が及ばない形で輝虎を追い詰めて、自ら膝を屈するように仕向けようとしたようである。

 その証拠に、3月1日付新発田忠敦宛、上杉旱虎書状(『上越市史』674)で、輝虎は「この上思いがけない凶事が起こったら、わたしは滅亡してしまう(【原文】「加様之切所余多越立、令張陣候之条、若此上悪事出来候而、一頭二頭於取除者、則当陣之破眼前ニ双方歟、左様ニ候ヘハ、為不手合愚之滅亡令分別候条、」)」と弱音を吐いているが、凶事とはこちらへ武田信玄が乗り込んでくるということだろう。まさに信玄が動けば、輝虎は破滅するかもしれなかったが、信玄は絶好の機会を作っておきながら、軍勢を北方ではなく、南方に向けた。駿河の今川氏真を攻めたのである。同年11月のことであった。

 信玄にすれば、義昭および信長が越後上杉家と甲斐武田家と相模北条家の三和を打診しているので、輝虎がその方針で動く確信があった。そこで輝虎を苦しめておきながら、恩を売るかのように南進して、延命させてやったという既成事実を作ろうとしたわけである。

 信玄と氏真は前年より緊張関係に入っており、今川は北条と連携して武田への塩を輸出停止していたと伝わっている。

 ここで相模の北条氏康が、同盟国を攻めた信玄に激怒する。三国同盟が破綻する。

三和の破綻

 三国同盟が破綻すると、困るのは輝虎である。武田および北条と仲良くしなければ上洛などできっこないのに、武田と北条が仲違いしてしまったら、どちらか片方とだけ仲良くするのは難しいからである。案の定、北条氏康・氏政父子から越後へ使者が派遣され、翌永禄12年(1569)正月、「相越一和之儀」が打診された。

 ただでさえ苦しい身の上の輝虎としては断りようがない。問題は自分を御屋形様と仰ぎ見てくれる関東諸士で、出来るだけ彼らの信頼を損なわないよう、苦しい和睦交渉を進めなければならなくなった。安房の里見義弘や常陸に亡命している武蔵の太田資正には、「どうせ北条とはうまく和睦できないと思うが、あなたの意見をよく聞いてことを進めたい」と伝えている。...