越相同盟の破綻

春日山城の上杉謙信像

 結局のところ上杉謙信と北条氏康・氏政父子の同盟は破綻する。謙信が彼らとの「同陣」を前提に軍事行動を起こすという北条方にとって受け入れがたい伝えており、しかし北条方がこれに合意しても武田信玄が両者を引き剥がそうとばかりに軍事行動を繰り返し、その歩調を狂わせた。さらに謙信は同盟締結前から関東の戦線から離脱して、北陸方面への侵攻を本格化する方針を固めようとしていたことで、越中への遠征を余儀なくされることが増え、関東や信濃へ越山している余裕を作りにくい状態にあった。

 また謙信にとっても、万難を排してまで北条へ前面支援し、以前のように武田信玄との抗争を深刻化させることは、戦略上とても都合が悪く、どちらかというと、氏康とだけではなく、信玄との停戦も確定させて、足利義昭を扶翼する道筋を立てたかった。

 ただ、こうした方針を黙って進めようとする謙信の考えは、ちょっとご都合主義が過ぎるだろう。その身勝手さに振り回される北条家中の心中を思えば、不信感が高まるのも無理のないことである。

 北条氏康が健康である間、越相同盟そのものは堅持された。だが、 元亀2年(1571)10月3日氏康が病死すると、同年12月末、当主の氏政は方針を一転させて、武田信玄との同盟を復活させることにした。しかもここで足利義昭の望んだ“越甲相三和”とはならず、越相同盟は破棄された。謙信は「手切之一札」を氏政と交わし、両者の関係が白紙に戻ったことを伝えた。

 こうして三国の関係は、同盟以前に戻ったのである。なお、同盟の破棄は氏康の遺言によるものだとする解釈がよく伝えられているが、一次史料にそうした形跡はない。晩年の氏康は言語不明瞭で、今後の方針は氏政がご隠居様である父を頼らず、自身で決断しなければならなかった。氏康の遺志とする所伝を首肯することはできない。氏政は自身の判断で上杉を切り捨てたのである。

 のちに謙信は、「氏政がそれまでの誓紙を反故にし、しかも越後に置いてある上杉景虎と忠臣たる遠山康光・康英父子を見捨て、父である氏康の遺言に背いた(天正3年4月23日付上杉謙信願文:【該当原文】「翻誓詞、剰、三郎并不限忠信仕遠山父子差捨、父氏康背遺言背、」)」とする非難文を、多聞天に報告する形式の願文に認め、反故となった北条との誓紙を宝前に捧げている。...