【謙信と信長 目次】
信玄上洛

(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場
(13)越相同盟の破綻    
織田信長の前歴
(14)弾正忠信秀の台頭・前編 
(15)弾正忠信秀の台頭・後編 
(16)守護代又代・織田信長の尾張統一戦 
(17)桶狭間合戦前夜 ☜最新回
  ・尾張統一後の守護・斯波義銀
  ・表舞台に立つ守護と信長の「御隠居」
  ・主従関係の破綻
  ・斯波義銀の計略と追放
  ・桶狭間前夜の尾張情勢

尾張統一後の守護・斯波義銀

歌川豊宣画『尾州桶狭間合戦』

 尾張統一後の織田信長は、永禄2年(1559)ほどなく上洛して将軍・足利義輝に謁見を望んだ。この際、美濃一色(斎藤)義龍の刺客に狙われたが、信長の側近が「お前たちの所業など見え透いているぞ。明日わが主人のもとへ挨拶に来い」と声をかけ、信長も実際にやってきた刺客たちに「やりたいのなら、今からやるか」と睨みつけ、一同を退かせた。

 また、それまで守護として外交交渉の主導権を握っていた若き屋形・斯波義銀(義近)を擁立した。義銀は守護代・織田信友に父・義統を殺害されたため、避難して信長のもとを頼った。信長は伝統的な貴人社会を軽視していなかった。

 ここに守護・斯波義銀は、信長の主人として尾張に君臨することとなった。

斯波義銀(斯波義近)肖像画(模本) 東京大学史料編纂所蔵

 某年(研究者の多くは弘治年間と推測している)4月における主従の様子は、『信長公記』[首巻]に描かれている。

 この時、駿河の今川義元陣営だった三河の名族・吉良義昭(よしあきら/利御一家)が、尾張陣営との停戦を決意した。とはいえ義昭は天文24年(1555)、兄の吉良義安が義元の攻撃を受けて拠点の三河西尾城を奪われ、駿河へと移動させられている。西尾城には今川家臣が入った。

 このため弟の義昭が当主となり、義元から駿河東条城を与えられる。敗軍の一族が本領を回復するには今川家の後ろ盾に頼るほかなかった。また義元も不穏な三河を円滑に統治していくため、義昭に三河を代表する頭目として既成事実を積み重ねさせるべく、駿河から尾張代表の守護・斯波義銀と和睦交渉を進めさせることにしたのだろう。

 義元は三河に安定政権を築かせたい。そのため、尾張からの侵攻を食い止めるべく、斯波義銀に交渉を打診したと思われる。義銀を指定すれば、信長はその立場上、是非を申すことができない。しかもこれは信長にも利があった。

表舞台に立つ守護と信長の「御隠居」

 ここで駿河の者から「取持相調候て」すなわち取り持ちの調整が進められ、尾張・三河両国の名族同士で会見することになった。ここに信長も兵を連れ、「武衛(斯波義銀)様御伴」として随従した。双方とも軍勢を引き連れていたが、互いに遠慮しあって160メートルほど距離を開けたまま対面したという。場合によっては交渉決裂となって、即座に戦闘となったかもしれないが、どちらも簡単に顔を合わせた程度で大人しく退陣した。一応全ては無事に済んだのである。

 この対面は、斯波義銀・吉良義昭および今川義元・織田信長それぞれにとって利のある重要なイベントだった。...