(1)企業規模から理解する戦国武士
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
(2)徒士明智光秀の美濃時代☜最新回
・美濃土岐義純の随分衆から
・斎藤道三という男
・道三と高政の父子相克
・若き日の光秀が美濃で学んだもの
美濃土岐頼純の随分衆から
まずは若き日の明智光秀をみていこう。
光秀の経歴は、美濃土岐氏族の随分衆(ずいぶんしゅう)からスタートする。随分衆というのは、徒士(かち)、足軽とも呼ばれる最下層の侍で、馬乗りを許されていない。とりあえず彼の地位は《足軽》からスタートした。
一口に足軽と言っても、主人の身辺警護に出仕する職務なので、どこの馬の骨ともわからない他国の者や、極端に貧しい百姓の雑兵が取り立てられることはない。
侍としての武芸があり、1人以上の従者がいて、日夜問わず安全を確保する知識があり、主人と周辺人物から投げかけられる雑談や冗談に応ずる能力も必要だった。
主君の名は土岐頼純(よりずみ)(1524〜47)。光秀にとって4歳年上の主君である。頼純は、斎藤道三(どうさん)(1494〜1556)が主君と奉ずる守護・土岐頼芸(よりのり)(1502〜82)のライバルであった。もちろん道三とも敵対しており、頼純は頼芸に成り代わって、美濃守護になりたがっていた。
頼純は頼芸の甥で、亡父は一度守護に就任したこともある。それゆえ守護就任に執念を燃やしていた。
しかし、戦上手の道三がこれを阻止する。何度も争ったが、頼純は道三に勝てなかった。
天文15年(1546)、敗戦続きで心の折れた頼純は、停戦を決断する。これを快く容れた道三は和睦の証として頼純に自分の娘(濃姫)を嫁がせることにした。ところが翌年、頼純は急死する。道三に毒殺されたのだ。
婚姻は道三の罠だった。あるいは婚姻後も頼純が懲りることなく、密かに大掛かりな挙兵を企んでおり、これを嗅ぎつけた道三に阻止されたのかもしれない。
いずれにせよ、こうして光秀の主君は24歳の若さで滅亡した。光秀に行き場はないので、道三の家臣として落ち着いたことだろう。この時期の光秀の経歴は不明だが、まだ美濃にいた形跡が強く、濃姫の護衛に転任した可能性が高い。光秀はここに《濃姫との縁》を得た。
斎藤道三という男
ところで斎藤道三とはどういう男であっただろうか。
戦上手で謀略家というのが、一般的な評価である。
それに父子2代に渡る成り上がり者だ。
道三は、陰険な暗殺を仕掛けることの多かった《謀将》である。婿の頼純を毒殺したことや、主君の頼芸を追放したことで、悪評は決定的となった。道三が野心満々にやったかどうかなど問題ではない。道三の父親は京都の僧侶あがりだったが、それが美濃で武士になり、とんとん拍子で出世して、斎藤家を乗っ取った。それが今や国主なのだから、下克上の非難を受けるのは当然である。...