(1)企業規模から理解する戦国武士
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
(2)徒士明智光秀の美濃時代
・美濃土岐義純の随分衆から
・斎藤道三という男
・道三と高政の父子相克
・若き日の光秀が美濃で学んだもの
(3)牢人明智光秀の越前時代☜最新回
・牢人になった光秀
・称念寺近辺の僧侶たちから薬学を学ぶ
・滋賀郡田中城ゆかりの女性と結婚
・〈永禄の変〉と高嶋田中籠城
・明智光秀と幕臣
牢人になった光秀
美濃時代に《謀将》の何たるかを見聞きした光秀は、越前に移住した。後年、この時期の光秀のことは、越前時代に交わった時宗の僧侶から「濃州(のうしゅう)土岐一家牢人」だったと回顧されている(『遊行三十一祖京畿御修行記』)。
濃州というのは光秀の出身地を指す。土岐一家牢人とは、土岐一家の牢人という意味である。ここでの「一家」はファミリーのことだが、光秀が土岐氏の家族だったという意味ではない。土岐という組織の一員だったという意味である。ここは専門家にも錯誤されがちだ。
30前半にして他国へ逃れた光秀は、越前の大名・朝倉義景に保護を申し入れた。朝倉家は新たな人材を募集していなかったが、過去に土岐頼純を支援した経緯から、土岐牢人の光秀を無碍はできず、称念寺門前への移住を許した。朝倉家臣・黒坂景久(くろさかかげひさ)の知行地だった。景久は一向一揆との戦いで足に深傷(ふかで)を負って以来、歩行困難だったらしい。光秀は朝倉領内でも治安のいい地域で、警備などの仕事に携わったことだろう。
しかし光秀は景久を主君と仰がず、牢人の立場を通した。景久が正規雇用を拒んだのか、光秀自らそう望んだのかは不明である。ともあれ光秀は朝夕の食事にも事欠くという非情に厳しい生活を甘受した。小さなところに落ち着くべきではないと考えたのだろう。
光秀が越前で牢人生活を送った期間は、約10年である。称念寺門前は、時宗の行人たちが行き交う。ここで光秀は自然と僧侶たちとの交わりを深くすることになる。
称念寺近辺の僧侶たちから薬学を学ぶ
日々の食事にすら困っていた光秀は、僧侶たちにも仕事を求めたと思われる。ただし、光秀が身につけている技能は「卑しき歩卒」として足軽合戦に参陣する武芸ぐらいのものである。要人警護や施設警備を請け負ったり、または近くの合戦場を教えてもらい、出稼ぎに赴いただろう。
実際、光秀はその後、越前から少し離れた近江で陣借りをした形跡がある。陣借りとは、合戦に自主参加して手柄を立てて、武功を押し売りするものである。うまくいけば、大将に召し抱えられることもあった。逆に侍首を持ち帰っても、追い出されることもあった。
ただ、このようなことを繰り返しているだけだと一介の牢人としてその生涯を終えるしかない。合戦に参加して日銭をもらいながら時を過ごせば、老いたあとそのまま僧侶の仲間入りをするしかなくなるだろう。しかしまだ中年の域に入ったばかりの光秀は意欲的であった。いつのまにか専門的な薬学の知識を習得していたのである。...