小田城跡(茨城県つくば市)

 居城である小田城を奪われるたび、奪還してきた「常陸の不死鳥」小田氏治。彼が「戦国最弱」ではなく、むしろ周囲が氏治を強敵として恐れていたという。史上最大の決戦から、氏治の強さを見ていこう。

(乃至 政彦:歴史家)

戦国のキングギドラ

小田氏治(Wikipediaより)

 常陸国の武将・小田氏治(天庵)は昨今、「戦国最弱の武将」などと可愛らしく呼ばれている。その理由は、いつも大きな合戦に大敗するばかりか、そのたびに本拠地の小田城を奪われる屈辱に面しているからだという。ただ、「常陸の不死鳥」という響きのよいキャッチフレーズもあるように、何度も小田城奪還を果たしてもいる。

 だが、氏治が本当に「戦国最弱」だったかというと疑問がある。第一に、氏治が負けるのは、常に自軍以上の大軍と争っている時である。第二に、小田城の陥落もほとんど多国籍軍の攻撃を受けてのものだった。

 上杉謙信による永禄9年(1566)の「小田開城」は、関東中の連合軍に包囲されてのものだ。氏治を攻める側はいつも味方を大量動員して、氏治は寡兵でこれに立ち向かい、敗れただけのことである。

 とはいえ、重要な合戦でことごとく負けているのは事実である。だが、これは「戦国最弱」だからではなく、むしろ周囲が氏治を強敵として恐れていた結果である。氏治と戦った者たちはその戦闘力をひどく恐れ、事前の作戦で優位に立てるよう対策してから交戦している。

 なお、近世の二次史料(軍記や系図など)は敗軍の将に厳しい評価を加えるのが常だが、これらはいずれも氏治を勇猛な名将だったと称賛している。皆さんもフィクションの世界などで「あり余る力量がありながら連敗してしまう大敵」には見覚えがあるはずだ。

 別に氏治の名誉回復を願うわけでもないが、ここでは「戦国最弱」ではない別の異名で呼んでみたい。〈戦国のキングギドラ〉である。

小田氏治史上最大の決戦

制作/アトリエ・プラン

 前回は、小田氏治が海老ヶ島合戦に向かう直前までを描いた。今回はその合戦そのものを描写したい。

 合戦前の氏治は、敵対する結城政勝にとても恐れられていた。常陸の大将・佐竹義昭と秘密同盟を結んでいたからである。ちなみに氏治はこの日まで本格的な合戦をしておらず、その実力は未知数だったが、亡父・小田政治は結城勢を追い詰めた剛将で、その士卒を引き継ぐ氏治が難敵なのは疑いないところであった。

 政治死後の氏治は、政勝とすぐ険悪な関係になったが、政勝はあえて何も仕掛けず、力を蓄えることに専念した。これを見た氏治が開戦準備を整えると、なんと政勝は関東随一の大名・北条氏康に自ら進んで属す決意をくだした。しかも有事に備えて、周辺の領主たちとも連絡を絶やさなかった。氏治はそれほどまで恐れられていたのである。

 舞台に登場する前から「金星を滅ぼした宇宙怪獣」などと、その強さを鳴り物入りで喧伝される点はキングギドラと一致する。先代の武威により、小田氏治は異常に警戒されていた。

 また、氏治個人も「強数奇(つよすぎ)」「血気盛ん」などと記録されるように野心と闘魂がギラギラと輝ききっていた。ギドラも氏治も単体で挑むには危険すぎたのである。

 おまけに氏治は武士のキング・足利義教の血筋だという伝説がある。もしも結城軍に大勝すれば、あるいは本当に関東のキングになる未来もあり得ないわけではなかろう。

小田・菅谷・信太からなる三頭竜

 ギドラの造形は三頭竜で、単純に見て脳味噌が普通怪獣の三倍ある計算になる。ただ、この頭脳が有効活用された様子はなく、いつも肉体勝負に出るパワーキャラとされている。

 小田氏治にも、菅谷勝貞という優れたブレーンがいた。信太重成という心強いバックもいた。特に勝貞は、事あるごとに適切な意見を提言する軍師ぶりを発揮していた。ただ、氏治はこれをまったく聞き入れず、力押しばかりに頼む悪癖があった。この点もギドラ風であろう。反則的な侵略を好むところも共通している。

 今回、氏治は佐竹義昭を相棒に選んで、結城勢を滅ぼす計策を進めていた。

 若い氏治は、政勝のいかにも勇猛そうなところのない顔立ちを思い浮かべて、失笑しそうになっただろう。あの老いぼれは今もっとも目障りな男だ。だから潰す。氏治の戦意は本物だった。

 義昭はよく働いてくれていた。義昭は、結城政勝が尻尾を振っている北条氏康に、「最近は小田氏治と不仲になって困っています」などと嘘八百の手紙を送り、これを真に受けた氏康が「これなら政勝も安心だろう」とまんまと騙され、房総戦線に本腰を入れ始めた。

 これで政勝は、北条の援軍を期待できない状況に陥った。この分なら関東の天下を取るのもたやすいだろう。

 だが、政勝とその盟友である陸奥国の白河晴綱は、小田と佐竹が親密に交わっているのをよく観察していた。晴綱は、義昭の使者が小田原まで往復しているのを見て、氏康に「どういうことですか」と詰問する手紙を送りつけた。驚いた氏康はすぐ各地に使价を派遣して、結城城まで北条家臣と古河家臣の将士を大勢で駆けつけさせた。房総方面とは別に温存していた虎の子であった。

 こうして小田・佐竹連合は結城方を追い詰めているつもりでいながら、すべてが簡単に露見したため、かえって氏康を本気にさせてしまったのである。決戦のときが迫る。

海老ヶ島城を攻囲する結城軍

 常陸国の西部・真壁郡にある海老ヶ島城は、水田と湿地に囲まれ、さながら湖面に浮かぶ水城のようであった。

 この城は80年ほど前、結城領と小田領の境界線にあたる地点に、結城軍が構築させたものである。結城一族の拠点は下総国であるはずなのに、常陸国に城を作るのは明らかな敵対行為だ。小田一族はこれに長らく神経を尖らせることになった。

 天文15年(1546)、その怒りが爆発した。小田家臣の宍戸通綱が海老ヶ島城を攻撃し、城主の海老原俊元を追放したのだ。小田軍はここに平塚長信を在城させた。正義は勝つ、悪は栄えないのだと証明してやったのである。

 結城軍が小田領へ侵攻するにはまずこの地を奪還するのが先決だった。北条氏康の要請で、古河公方が政勝支援を各所の領主たちに命じた。そこに氏康の家臣も加わり、約2000騎もの大軍が政勝の眼前に現れた。

 氏治が事態に気づくより前に、連合軍を進発させるのが望ましいと考えた。それで早速、海老ヶ島城の西側に養子の結城晴朝を派兵させた。大軍で城内の将士を震え上がらせるのが狙いである。

 海老ヶ島城の危機を知った氏治は、義昭の援軍を待つことなく飛び出してくるだろう。大将たるもの、前線の城主を見殺しにする選択肢などあり得ないからである。予想通り、氏治が現れた。その数、「二千騎」ほどという(『結城家譜』)。短期間のうちにこの人数を集められる氏治はやはり関東屈指の強敵に違いない。もしここへ佐竹軍が駆けつけてきたら、勝機は薄くなってしまう。結城軍にとって、ここは即戦あるのみだった。

山王堂に陣取る小田軍

 焦っているのは俺ではない、お前たちだ──と小田氏治は思っただろう。時間を稼げば、優位に立てる。義昭が来るまで持ち堪えればいい。幸いにも城の南方にある台地がガラ空きにされていた。低湿地帯を見下ろす標高24メートルほどの山王堂(さんのうどう)である。

 結城軍は山王堂の西側、利根川水系の小貝川(こかいかわ)の先に布陣していた。敵はまだこの川を越せていなかったのだ。東方を振り返ると、霊峰・筑波山が見守ってくれている。小田軍は意気揚々と山王堂へ乗り上げた。

 考えなしに高地を陣取り、水の手を絶たれた馬謖とは違う。水源豊富なこの地で踏ん張れば、敵は容易に仕掛けられない。そこへ援軍が近づいて、敵勢が浮き足だったら、そこを追撃するのみである。地の利を計算して堅実な動きに出た氏治は、やはりおのれこそキングに相応しい大将だと確信したことだろう。だが、事前調査はしていなかったようだ。

合戦勃発

 合戦は昼過ぎ(午後2時ぐらい)に始まった。その詳細は確実な史料にあまり残されていないが、江戸時代の伝承を書き留めた近世軍記がある(『関八州古戦録』)。氏康の手紙などの一次史料と矛盾がなく、その精度は不明ながらも、臨場感の高い内容ので、両者を組み合わせて、合戦模様を再現していこう。

 はじめに仕掛けたのは結城軍だった。先手の大将は氏治よりも若い政勝の養子・結城晴朝だったようだ。老いた政勝は安全圏に控えて、23歳の後継者にすべてを託していた。

 一番手を担ったのは、かつて氏治を裏切った真壁城主・真壁道俊(どうしゅん)である。真壁城は海老ヶ島城のすぐ北東にあり、徒歩で2時間とかからない。このため、地勢に「熟知」していると見られ、一番手を任された。だが、道俊がいくら地理に精通して、勇敢であったとしても小勢では何もできない。氏治はこれをあっさり追い払った。

 続いて結城一門衆・山川氏重が挑みかかった。だが、氏治はこれも撃退した。三番手は多賀谷政広だった。しかし、これも撃ち破った。いずれも早々に引き上げて、その被害は軽微に済んだらしい。氏治の連戦連勝である。戦力を小出しする愚策ぶりに、小田軍は首を傾げるばかりだっただろう。ところが、結城軍はしつこかった。さらに水谷全芳(ぜんほう)が攻め入ったのだ。その頃、すでに追撃態勢に移っていて、油断していたらしい。今度は小田勢が崩された。

 ここで思わぬことが起こった。なんと、水田を踏み越えた騎馬武者が100騎ばかりこちらへと押し入ってきたのだ。普通なら馬が水田を突進するはずなどないのだが、彼らは勢いよく小田軍の脇腹へ精兵を乗り入れてきた。指揮官はあの結城晴朝である。

 たちまち300余人が討ち取られた。そこへそれまで控えていた古河家臣・太田資正と北条家臣・遠山綱景が泥へ踏み込んで、大挙して殺到してきた。

 このように結城晴朝・太田資正・遠山綱景の「三手」部隊の連動が図に当たり、勝負は決した。残る小田兵が壊走する。そこへ結城軍が続々と押し寄せて、逃亡兵1000余人を討ち取った。

 かくして海老ヶ島合戦(弘治山王堂合戦)は、氏治の大敗に終わったのである。

不死鳥の帰還

 軍記では不思議なことに、結城晴朝の精兵が軽々と水田を越えているが、この謎は別の史料によって解き明かせる。当時の現地寺院の記録に、この年は「天下旱(ひでり)」だったと記録されているのだ(『和光院旧記』)。氏治が山王堂に布陣した時、近くの水田と湿地は水気が浅く、それほどの泥濘もなかったのだろう。だから、横入れも可能だったのだ。氏治は地の利を見誤っていた。

 海老ヶ島城が奪取されると、その夜、氏治は土浦城へ直行して、城主・信太重成とともに立て篭もった。晴朝はこれを捨て置き、翌日早朝、小田城を制圧した。

 結城一族にとっては、ちょうど百年前に遭った結城落城の屈辱を果たす歴史的大勝利だった。ここに結城軍は「小田領中郡、四十二郷、田中荘海老島・大嶌・小栗・汝塚・豊田」をことごとく占領した。

 ただ、氏治は諦めなかった。政勝書状によれば、8月24日に「古地へ罷り移られ候」とあるので、早期の小田城奪還に成功したようである。しかも2年後の弘治4年(1558)には海老ヶ島城も奪還して、再び平塚長信が城主に返り咲いている。結城軍は占領地を守りきれなかったのだ。氏治は、佐竹義昭の援軍を後ろ盾に奮闘したのだろう。

 こうして〈戦国のキングギドラ〉は派手に敗北しながらも、簡単に復活を果たしたのだった。

キングギドラと小田氏治

 金星を滅ぼした宇宙怪獣キングギドラは、いつもラストで地球怪獣と格闘して負けている。天空からを引力光線を放つだけにしておけば、そんなこともないはずなのに、毎回わざわざ地上の敵と組み合って苦戦するのだ。本来得られるはずの地の利を自ら捨てているに等しい。

 氏治も海老ヶ島合戦で、湿地帯の高台に布陣して地の利を得たつもりでいた。だが、日照りで周囲が浅瀬と化していた。地の利を気にしないパワープレイはギドラ並だ。

 敗戦したあと、堂々と再登場を繰り返すのも両者の共通点である。敗北時にまるで現実感がないくらい見事な醜態を晒すのも同じだろう。現場にいた小田将士は眼前の出来事を「これは悪夢だ。事実ではない」と忘れたくなって、無謀な合戦を繰り返したのかもしれない。

 そしてどちらも、たまに強い味方を得るのだが、それでも負けフラグが立つ。ギドラは「千年龍王」を名乗って、勝率の高い護国聖獣たちと組んだこともあるが、結局はいつも通り、ゴジラに殺害されてしまっている。

 氏治もほとんど勝ち馬に乗るがごとくして、上杉謙信の関東大連合に加わり、北条氏康の居城を攻めたことがある。だが、感染症の流行と北条のゲリラ攻撃により、大軍は瓦解した。氏治がいなくても同じ結果だったかもしれないが、氏治が武運を落とした印象は拭えない。ただ、それでもギドラが「怪獣最弱」ではないように、氏治もまた「戦国最弱」ではないことを認めてもらえたら幸いである。

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