東明寺にある川越夜戦跡(埼玉県川越市)

(乃至 政彦:歴史家)

 山内上杉家15代当主で関東管領職の上杉憲政。のちに上杉謙信を養子にとり家督と管領職を譲ることになるが、圧倒的優位に立ちながら北条氏康に敗北した河越合戦により、無能なイメージがつきまとう。いまだ謎多き河越合戦を軸に、氏康との対峙、そして今川義元や武田晴信との駆け引きを絡めながら、憲政の実像に迫る。 

上杉憲政のイメージ

 関東管領職・上杉憲政。もと上野国平井城主である。

 ドラマなどの創作界では、無能な人物として描かれることが多い。実際、近世軍記の憲政評は辛辣を極めている。

 例えば『甲陽軍鑑』は「媚びてくる無能者を偏愛する」、「六万の大軍を率いても、忠義を考える者はそのうち百人以下」、「知行・所領・金銀・米銭を善悪の判断もなく人に与える」ような者は、「弱過ぎる大将」だと批難して、こうした所業から「家中を礼儀知らずばかりにしてしまい、御家を滅亡に導く」人物がいると述べ、「これを誰かといえば、上杉憲政公にとどめを刺す」と辛辣に貶める。さらに『相州兵乱記』も「(憲政は)人の嘲りを顧みず、傲り極まって色に耽り、酒宴のみに日を過ごした。このため佞人ばかりが増え、賢人は去っていった」と散々に指弾する。

 だが、軍記はいつも敗者に厳しい。それにこれらは憲政と戦った武田・北条ゆかりの史料であることに気をつけるべきだ。

 たしかに憲政が敗戦の末に居城を追われ、他国へ亡命した事実は変わりないが、その原因を、憲政が暗愚だったからと片付けるのは、後付けのご都合主義でしかない。そんな解釈を信じて得られることなど何もないだろう。

 わたしはいつも歴史が好きな方々に、自分の目を信じて欲しいと思っている。歴史人物を見るには、虚心坦懐に既定のイメージや真偽定かでない雑念に捉われずに評価してもらいたいと思っている。震災以来、現在のメディアを見て、作為的な情報操作を行っていると感じたことがあるだろう。小さな人間関係の中にも身勝手な印象操作があふれている。

 歴史を眺める時、伝説の虚実を見極めたい、過去の人をまっとうに評価したいと思ったことがあるはずだ。その気持ちが、リテラシーを高める原動力となる。悪意ある情報に惑わされないためには、何を置いても他人の主観を見抜く力、真実への意志が必要だろう。

 さて、今回のコラムでも既存のイメージに便乗せず、客観性を装うことも拒み、自分の主観で対象人物を語らせてもらいたい。まずは上杉謙信と出会う前の憲政が、教養豊かな貴公子であり、合戦にも積極的な武人であり、理想に燃える若者であったことから見ていきたい。

 全2回、テーマは河越合戦である。

開戦前までの憲政

 大永5年(1525)4月、憲政の実父が亡くなった。跡目は義兄・憲寛(のりひろ)が継いだ。するといきなり憲寛は、逆心の疑いがあるとして「上州安中城」の討伐を宣言した。だが、城主の安中顕繁(またはその子)に味方する近隣城主の西・小幡・用土氏らが救援に馳せ参じた。ここに管領家を二分する内訌が発生したのである。

 ここで反憲寛派は対抗馬に憲政を擁立した。こうして「管領家vs.反乱軍」の構図は、「憲寛vs.憲政」の家督争奪戦に塗り替えられた。戦国時代によくあるアウフヘーベンである。

 2年後、内訌は反乱軍の勝利に終わった。憲政はまだ9歳の幼児でありながら、思わぬ形で関東管領職に就任させられてしまった。

 ところで管領とは、もともと公方の執事を後見する通称である。それがいつしか執事を管領と呼ぶようになって、もとの意味が消えた。関東上杉家は、代々この管領職を担ってきた。権限の大きな役職なので、今回みたいな権力闘争を招くことも時々あった。管領は、責任の重い役職だったのだ。

 しかし管領職というのは役職であるから、原理的には世襲である必要などない。時代は変わりつつあって、実際そう考える者が現れた。その理由は、若き憲政の実力不足にあった。

 憲政の眉に、愁いが宿る。

公方のため、民のため、憲政起つ

 もし「戦国最弱」という称号を誰かに求めるとすれば、小田氏治より憲政の方がふさわしい。そういう人もいる。憲政の戦績は、それぐらい悲惨だ。しかも公方には、すでに憲政以上の実力と功績を誇る大名が輝きを放っていた。相模国の北条氏綱とその息子・氏康である。

 かつて公方には仇敵がいた。「俺こそが本物だ」と唱える別の公方がいたのだ。小弓公方である。それに与する群雄もいた。北条軍はこれを滅ぼし、さらに残党の平定と向き合った。まがい物の討滅に喜び勇んだ公方は、新たな管領に氏綱を立てようと申し伝えた。天文7年(1538)のことである。翌年、氏綱は公方に自分の娘を嫁がせて、公方の「御一家」となった。2年後、この女性が男子を生む。後の足利義氏である。公方には、前妻(簗田氏)との間にすでに男子がいたが、このままだと北条は跡継ぎの変更に乗り出すに違いない。

 同年夏、氏綱が病没し、息子の氏康が北条家の当主に就いた。氏綱は息子に「義を守りての滅亡と義を捨てての栄華は天下格別である」と言い遺した。果たして氏康に義はあるだろうか。少年当主の憲政は、関東中に潜在する北条への不満を強く感じ取っていた。

 それは公方の足利晴氏である。天文11年(1542)、19歳の憲政は鹿島神宮に「宗瑞」「氏綱・氏泰」が三代にわたり「八州併呑」を企んでいるので、これと「決戦」して「君」(晴氏)を立て、「民」の苦しみを除きたいとの願文を捧げた。

 それまで土豪が百姓と長年の呼吸で、適度な年貢を取り立てていたが、北条氏は領内の「検地」を徹底することで隠田や新田を探し当て、税収を4割も増加させた土地があった。憲政の耳に民の不満が聞こえてくるのも当然だ。それに、誰よりも公方自身が、北条の天下を望んでいないと言うことが伝えられていた。

 こうして憲政は、後漢末に献帝から密詔を受けた劉備のごとく、蠢動を開始する。憲政が目をつけたのは、先に北条と領土紛争があった駿河国の今川義元だった。義元と水面下で交渉を行い、北条挟撃の策を誘った。ここに関東の覇権をめぐる「決戦」前状況が作られていく。

水も漏らさぬ計策ぶり

作成/アトリエ・プラン

 憲政は、武蔵国の河越城に狙いを定めた。

 城主は北条綱成(つなしげ)。氏康と血肉分けたる仲ではないが、両者はとても睦まじかった。この城はもともと扇谷上杉の当主である朝定の拠点だった。憲政は北条に奪われまいと支援し続けていたが、願いは果たせなかった。2歳年少の朝定が憲政に奪還を懇請する。

 管領である自分が立たなければ、誰が取り返してやれようか。憲政は河越城奪還の決意を固めた。もし朝定の願いをかなえてやれば、上杉家の勢威を取り戻す最高のデモンストレーションとなるだろう。また、公方さまも満足するに違いない。こうして憲政は「決戦」準備を整えたのである。

 天文14年(1545)7月、今川義元が動いた。今川軍は富士川を越え、駿河国内の北条領へ進軍し、善得寺に布陣した。氏康が出馬したのを確認すると、憲政は動いた。

 朝定と共に河越城へ出馬したのである。

 憲政は常陸・下野・下総・武蔵諸国へ檄を飛ばし、関東諸士の胸にくすぶる現状への不満と、将来への不安を煽った。名だたる古豪が憲政のもとへ馳せ参じた。集まった人数は約8万と伝えられている(『北条記』)。この数値は誇張だとしても、旧扇谷家臣も出陣していることから、複数の領主が集まっていたのは事実と思われる。もし氏康が自由の身であったら、彼らはここに来なかっただろう。

 しかも両上杉軍の陣営には、古河公方その人の姿もあった。

 憲政は、揃うべき役者を、順番を間違えずに動員できたのである。ここに関東の大義は、憲政のもとで独占されたのだ。

北条氏康の反転

 大局は完全に決まった──ように見えた。だが、ここで短時間のうちに事態は急変する。なんと、北条氏康がフリーハンドになったのだ。

 憲政が河越城を取り囲んだ直後、氏康は急ぎ甲斐国の武田晴信(信玄)の仲介を得て、今川義元に駿河国の領地割譲を打診した。ここで駿相は9月22日にひとまず「矢留」(停戦)した。

 信濃国進出を企んでいる晴信としては、ここで北条が東海道に釘付けになってしまうと困ってしまう。上杉軍がこちらの侵略阻止へ動き出しかねなくなるからだ。ただ、単に北条と今川に和睦を勧めても、憲政と密約を結んでいる義元が首を縦に振るはずもない。そこで、晴信は上杉との関係改善を望んでいると告げたらしい。

 この時期の史料『甲陽日記』天文14年9月24日条を見てみよう。そこでは、武田晴信は、憲政と氏康と今川義元の「三方」が和睦するための交渉を進ませたと書かれている(「官領・義元・氏康、三方輪の誓句参候、此義に付高白三度雪斎陣所へ行、廿二日互に矢留」)。

 氏康の亡父・氏綱は、まがりなりにも古河公方を主君として立て続けてきた。氏綱の遺訓には、大将だけでなく諸侍も義を守ること、百姓を見捨てず大切にすること。侍は身の程をわきまえること、という内容のことが書かれている。

 氏康は瞑目して、亡父の後ろ姿を思い浮かべただろう。もし氏綱が健在ならどうしただろうか。きっと、公方や憲政と争うのは本意ではないと表明して、無用の戦乱を回避するべく努めたであろう。これが、義を大事にすることであり、万民を大切にすることであり、身の程をわきまえる者の道である。

 義元にすれば、氏康が領土を分けてくれるというのなら、何の異存もない。こうして氏康と義元は、晴信に合意した。後顧の憂いを絶った氏康は、軍勢の反転が可能となったのだ。ここから翌年(1546)4月20日に勃発する河越合戦の前状況が作られたのである。

氏康の動きが停滞した理由

 ただ、「矢留」から翌年4月まで氏康は8ヶ月近くの間、軍事行動を停止している。その理由は定かではないが、なぜすぐに河越城救援に赴かなかったのだろうか。

 まず急展開があった。

 北条・武田・今川の矢留からすぐあとの9月26日、古河公方・足利晴氏が両上杉の陣営に加わることを表明したのだ。10月27日に晴氏は河越城に出馬して、両上杉軍に同陣した(『別本塔寺八幡宮長帳』、『喜連川判鑑』)。氏康の妹も夫を引き留めなかった。

 武田晴信の提案では、氏康は義元だけでなく憲政とも和睦する予定だった。だが、公方が両上杉軍に味方したので、憲政も強気の態度を固めたらしい。なお、この事態に際して、翌年まで氏康は河越城救援に動いていない。

 また通説だと両上杉軍は8万余りの大人数で河越城を囲んだというが、なぜか翌年春まで戦局は動いていない。河越城を守る北条綱成にはわずか3000人の手勢しかいなかったのに、おかしい話である。しかし、その理由はこれまでの研究で明らかにされていない。

 氏康は、公方・両上杉連合軍の巨大な陣容を恐れて、これに近づけなかったのだろうか。もしそうであれば、もし憲政が氏康の出馬を待って、「決戦」を仕掛けるつもりだったとしても、ここで戦略を切り替えて、河越城を力攻めで制圧し、城兵を血祭りに上げてしまえば、氏康の威信は地に落ち、決戦に勝利する以上の成果を得られたはずである。だが、憲政がそのように考えた様子もない。

 この謎を解く鍵は、3つある。

 1つは憲政が集めた人数が実は通説ほど多くはなかっただろうことだ。憲政が8万の大軍を率いたとする初期史料は『甲陽軍鑑』だけで、同書の北条に関する情報は、その祖・早雲を「素浪人」出身と記すなどの誤認が目立つ。先行する史料の誤読らしい箇所もある。当時の憲政にこれほどの動員力はなかっただろう。もしこんな力があったら、河越城が北条の手に落ちる前に手はあったはずだ。別の文献に、憲政の陣営は6000騎程度だったと記すものもある。憲政の兵力は、史料によって10倍以上の差があるのだ。

 もう1つは憲政が思うほどの人数を揃えられず、河越城の城兵が兵糧を順調して、長期戦に耐えていたと思われることだ。つまりこの城攻めはとてもぬるかったのである。

 そして最後の鍵は、両者とも決戦意欲がまだ高まっていなかったことだ。憲政は、義元が氏康を足止めするのをアテにして河越城へ迫った。ところが氏康は野放しになり、憲政は正面対決に躊躇することとなった。一方氏康も憲政単体ならまだしも、関東諸士が尊崇する公方までその陣営に加わったので、なるべくなら合戦を回避したい。だが、憲政は氏康に譲歩する気などなく、全面的な降伏を望んだのであろう。

 これら3つの理由から、公方両上杉連合と北条氏康は、「決戦」をしない方向で河越城を軸とする交渉に取り掛かっており、それが長期化していったと考えられるのである。だが、やがてこの交渉も破綻を迎えることになる。

 ここまで合戦前夜の状況を述べた。次回はいよいよその合戦内容に迫りたい。

『謙信越山』特設ページ
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