(乃至 政彦:歴史家)
「義の武将」あるいは「軍神」といわれ、抜群の人気を誇る戦国武将・上杉謙信。徒歩以外に交通手段のなかった時代、越後から関東へ何度も「越山」を繰り返した真の目的とは? 謙信に詳しい著者が一次史料と最新研究により、謙信の実像と関東の戦国史に迫る。
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公方外戚・簗田晴助の憂悶
関東の古河公方(こがくぼう)・足利晴氏(はるうじ)は、下総国の古河城を拠点としていた。古河公方とは関東で当時一番偉いとされる役職で、その次に補佐役の関東管領が並ぶ。公方の側近である「宿老」の簗田晴助(やなだはれすけ/1524~94)も相応の権勢を誇っていた。その晴助は、同国の関宿(せきやど)城を拠点としていた。
晴助は北条氏康(1515~1571)をライバルと見て、闘争心で煮えたぎっている。向こうは晴助をそう見ていないかもしれないが、氏康をこのままにしておくと、簗田一族は単なる一領主に転落させられてしまう。晴助はそう確信していた。だが、まだしばらく本心を隠す必要があった。ことの経緯を簡単に見ていこう。
脅かされる公方外戚の地位
晴助の妹(姉とも)は晴氏の正室である。彼は公方の外戚にして宿老であった。しかも「晴」の一字を与えられていることから信任の厚さは一目瞭然。関東では誰もが晴助に無礼のないよう気を遣っていた。
晴助の関宿城は、船舶が多く集まる河川町を抱えている。ここから南に流れる大利根川と、西に流れる小利根川一帯の水運利権はとても大きい。簗田氏は以前から関宿の「舟役」を公方に託され、「利根川舟路ならびに古河へ通る商人」の安全も保証されていた。この地を得れば一国に値すると言われるほどで、これが晴助の家格と実力を補完していた。
さらに簗田氏は、相馬氏や一色氏など、周辺の名族とも深い繋がりを持っていた。これらは経済力や軍事力だけで結べる縁ではない。
関宿城は晴氏が拠点とする古河城のすぐ南東にある。そこからまた少し南西に向かうと武蔵国の岩附(いわつき)城がある。岩附城は有力武将・太田資正の居城であった。資正もまた古河公方家臣のように屹立しており、その軍事的防衛網は盤石であるかに見えた。
だが、彼らの立場は危うくなっていく。想定外の「他所者(よそもの)」が巨大な力をつけていたのである。「他所者」とは、相模国の北条氏綱である。
北条氏綱は関東諸国の紛争で武名を挙げ、軍事的・政治的存在感を増していた。しかも天文7年(1538)には、古河公方の天敵である下総国の小弓(おゆみ)公方・足利義明(よしあき)と国府台(こうのだい)合戦で争い、これを戦死させた。
こうして古河公方の功臣となった氏綱は、ここに大きな発言力を獲得した。足利晴氏は梁田晴助の姉(姉ともいう)を娶っていたが、氏綱がここへ自らの娘である芳春院殿(北条氏康妹[『北条記』])を送り込み、晴氏の「御台(みだい)」(公方の正妻)とさせたのである。晴氏と晴助妹との間にはすでに長男(後の足利藤氏)がいたが、芳春院殿もまた男子(後の足利義氏)を産んだ。
北条氏綱は、もとを正せば西国の伊勢氏族である。そんな彼が関東で古河公方の外戚になるなど、僭越も甚だしい──そう思うと、晴助の身に虫酸(むしず)が走った。
関東の伝統的な領主たちも面白かろうはずがない。だが国持ち大名である氏綱は、関東で並ぶ者のない実力者である。今や独力で北条軍に拮抗できる勢力は関東にいなかった。今の晴助は「今に見よ」と思っていても、黙って従うほかなかった。
北条氏綱の死
天文10年(1541)5月、ここへ大きな転機が訪れる。北条氏綱が病死したのだ。
ここで古河公方とその宿老たちは、反北条派の姿勢を堅持する関東管領・上杉憲政と共闘することにした。この機に、
同年正月、晴氏と芳春院殿の間に息子(後の義氏)が生まれたが、晴氏はすでに憲政や晴助らとともに反北条派として争う覚悟を固めていた。彼らは北条一族が邪魔で仕方がなかった。
しかし、待っていたのは無残な敗北だった。5年後の天文15年(1546)に行われた河越合戦で、完全なる惨敗を喫したのだ。これで氏康は亡父以上の権勢を誇るに至った。
合戦前の氏康は、古河公方に中立を通して欲しいと要請していた。だが、晴氏は憲政の味方をして、打倒氏康の態度を改めなかった。それで敗戦したのだから、晴氏には言い訳の言葉もない。そこで簗田晴助が、主人に代わって頭を下げたのである。
天文20年(1551)12月11日、晴助は氏康に、簗田氏が「関東中諸侍」から孤立しないよう計らうとの言質を取り付けた(五箇条の起請文)。ただ、氏康はしたたかだった。同時に、もし晴助が「御覚悟相違(掌を返す真似)」や「御表裏(二枚舌)」を企んだら、神罰を被(こうむ)
簗田一族をも屈服せしめた北条軍の勢いは、今や絶大であった。関東諸士は次々とその傘下に組み込まれつつあった。
さらに氏康は簗田を古河公方外戚の地域から脱落させようとする。晴氏と芳春院殿の息子義氏に古河公方の家督を相続させ、簗田氏出身の藤氏を廃嫡させたのである。これには晴氏と晴助も黙っていられず、ついに本格的な抗争が始まった。
天文23年(1554)10月、古河城の足利晴氏・藤氏父子は家臣団と共に北条氏康を討つべく挙兵した。しかし、この挙兵はあまりに準備不足であった。氏康は急ぎ大軍を集めると、すぐに反抗勢力を各個撃破して、古河公方衆の反乱を鎮圧した。
これで関東の運命は決まった。北条の天下である。
河越敗戦の後始末
古河公方・足利晴氏は北条軍に拉致されて、相模国波多野(はだの/神奈川県秦野市)に移送後、幽閉される身となった。古河の主人が不在になると、公方の家臣たちは晴助の顔を見た。晴助は彼らが骨抜きとなってしまわないよう、その再編に向けて蠢動を開始する。
一方、北条氏康も古河公方の外戚たるべく、彼らの動きを抑える手を推し進める。永禄元年(1557)4月、簗田晴助に足利義氏の「御動座」のため、簗田氏代々の居城である関宿城の明け渡しと、古河城への移住を要請したのだ。晴助がこれに応ずれば、莫大な利益を生む関宿城は氏康のものになってしまう。
簗田氏の立場はもはや風前の灯である。だが、それでも晴助は、否を唱えず、古河城に移り住んだ。そして密かに知行地の検地を行い、所領を恩賞として扱うことで、常陸川水域付近の武将たちを統制していき、軍事力の再編を推し進めた。
こうして簗田氏は、太田資正や小山高朝など関東の群雄に並ぶ動員力の基礎を築いていく(永禄9年[1566]には太田氏、小山氏、簗田氏は、当時の関東管領からいずれも等しく「百騎」の軍役を記録されるに至っている。結城晴朝、佐野昌綱、横瀬成繁、成田氏長、宇都宮広綱らの大名は「二百騎」)。
とりあえず軍事力は確保した。もちろんこれだけでは大した兵力を集められず、北条軍に対抗する力はない。兵力ばかりか優れた指揮を執れる武将もいない。晴助は氏康への敵愾心を募らせ、できる限りのことを進めてきたが、なお独力で現状を打開する機会を作れずにいた。
簗田晴助の最終兵器・長尾景虎
ところで、簗田晴助の「晴」の一字は、古河公方の足利晴氏から拝領したものである。ただし晴氏は「晴」の一字を自分で名乗ったのではない。京都の征夷大将軍・足利義晴から拝領したものである。晴氏と義晴の交渉を仲介したのは、先に越後国から関東越山を果たして上杉憲政を平井城に帰還させた長尾景虎(後の上杉謙信)の兄である。
晴助には、この手筋があった。かつて「越山」した強力な景虎の軍勢を、再び関東に呼び込めたら、
関東全土を巻き込む大博打
長尾景虎は、天文21年(1552)
はじめ景虎は武力だけで晴信を追い払えると見ていたが、晴信は戦略に長けていた。周辺勢力の攻略、外交関係の活用、新たな要害の構築など、武力以外の手を打ち、越後兵の泣きどころを巧みに衝いて、これを翻弄していった。
その頃である。景虎が信濃国で争っている間に、上杉憲政が、
もしこれに藤氏と晴助が働きかけて、再度の景虎を越山させれば、
ただ──以前の越山で見せた景虎の姿は、粗野な武力馬鹿でしかなかった。「余所者」という点で見れば、北条氏と同じで、しかもかなりの礼儀知らずである。
景虎は合戦が得意だが、短気である。援軍に招いたところで、
それでもこのままだと、氏康に古河公方外戚の地位を奪い取られてしまう。簗田晴助は出来るだけ早く覚悟を決めなければならないのだ。
景虎を再び関東に招くべきか否か──。危険極まりない賭けが、まるで核のフットボールのように雪の国に眠っているのだった。
『謙信越山』特設ページ
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