連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回は当時のイングランドについて。イングランド王国とフランス王国の百年戦争は、一時休戦していましたが、フランス王国内でオルレアン派ことアルマニャック派とブルゴーニュ派が、対立して内戦状態に陥ってしまったことに加えて、彼らがイングランド王国軍のフランス侵攻を招いたことで再開されました。その中心にいたのは、アルマニャック派の無畏公ことブルゴーニュ公ジャン1世でした。

(1)はじめに
(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①

(3)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門②
(4)第一章 村娘の冒険①
(5)第一章 村娘の冒険②
(6)百年戦争とフランス王国の分裂
(7)ブルゴーニュ派とアルマニャック派とイングランド
 
  ・イングランドのヘンリー6世とフランスのシャルル7世
   ・フランス内戦——ブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争
   ・和平交渉の破綻と無畏公の横死
   ・フランス国王の王太子義絶  
右/ジャン1世 左/王妃イザボー

イングランドのヘンリー6世とフランスのシャルル7世

 イングランドのヘンリー6世は、合法的なフランス王(仮)である。前イギリス王(シャルル7世の娘婿)が前フランス王の合意を得て、前フランス王が先に亡くなったら自分がフランス王になるという条約を締結させていたのだから、問題はないはずだ。

 しかし前フランス王の嫡男であるシャルル7世も違法とは言いきれない。前フランス王より先に前イングランド王が亡くなった場合のことは曖昧だったからである。

 フランス在住の実子とイングランド在住の娘婿の息子(いわば前フランス王の孫)が同時に併存しているのだから、大義としては拮抗している。

 ただ、シャルル7世は、問題の条約をもって王太子の座から降ろされたのだから、王位継承権は永久失効されたのだとする見方もあろう。

 こうなったら、実力で勝負するしかない。

 元王太子シャルル7世の陣営はなかなかの曲者で、イングランドに遺恨のあるスコットランドから大々的な援軍を得ており、失地回復に積極的だった。

 そもそもこの「元王太子」陣営──ここでは便宜上、こう呼ぶことにしよう──は、かねてから陰謀家揃いである。

フランス内戦──ブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争

 群雄割拠の「百年戦争」は、主導者も勢力もあっさりと入れ替わり、複雑怪奇だが、理由のひとつはイングランドやフランスの国内勢力が、目先の利益や領土欲、権力闘争に明け暮れて、長期的視点を欠いていることにあろう。

 理想や大義は抗争を有利に運ぶための道具でしかない。

 特にブルゴーニュ公・ジャン1世は波乱を呼ぶ男であった。この公は「無畏公」の異名で知られる恐れ知らずで、しかも謀略を好んで、敵が多かった。

 例えば、1407年11月23日──。

 ジャン1世は当時の怨敵(しかも従兄弟同士)である王弟のオルレアン公・ルイを、パリ市街で手下に暗殺させた。暗殺者は覆面をしていて、犯人はにわかにわからないはずだったが、ジャン1世はこれを他言して、自らの策士ぶりを誇った。

 ブルゴーニュ公がオルレアン公を暗殺した。この暗殺は暴君の誅殺として認められるべきか否かと、パリの神学者たちを論争へと導いた。

 勢いに乗ったジャン1世は仲介に入ったはずの王妃を丸め込み、なんと自派へと引き入れた。しかもちゃっかり王太子シャルル7世の後見人としての地位まで手に入れていた。ブルゴーニュ派はここまで圧倒的に有利である。

 1411年、怒りに震えるオルレアン派は、ブルゴーニュ公ルイ2世に挑戦状を送りつけ、大きな内戦状態と化した。

 こうしてフランスは二派勢力に分裂する。

 ジャン1世のブルゴーニュ派と、オルレアン派である。

 なお、オルレアン派の呼び名については、その代表が「アルマニャック伯」であったため、今日ではアルマニャック派と称される。

 ブルゴーニュ派とアルマニャック派、互いの敵意はとても強く、両派はフランス王国と休戦中であるイングランド王国に援軍を依頼した。

 他国の介入を内戦に招くなど亡国の兆しとしか言いようがないのだが、どちらも勝つことばかりに目が向いていて、フランス王国の将来を憂えるどころではなかったようだ。

 これを見たイングランドは優位なブルゴーニュ派に味方した。勝ち馬に乗る方が楽だという判断があっただろう。

 援軍を得たブルゴーニュ派はパリを制圧。勝利の美酒を味わうジャン1世にすれば、笑いが止まらなかっただろう。だが、ここから潮目が変わっていく。

 イングランドで国王父子の対立からなる政変があり、方針が180度入れ替わって、今度はアルマニャック派と同盟することにしたのだ。驚いたジャン1世は

 ここにアルマニャック派がフランス内戦に圧倒的優位を得ることになったが、今度はイングランド王ヘンリー5世がフランス王位への野心を露わにしはじめた。

 中断していた「百年戦争」はここに復活して、フランスのアジャンクールにおいてアルマニャック派を中心とするフランス軍(ブルゴーニュ派の将士も参戦していた)とイングランド軍が大会戦することとなり、その結果フランス軍は大敗を喫した。

 皮肉なことではあるが、ここでブルゴーニュ派の胸のうちに、ようやく強い愛国心が蘇ってくる。

 イングランドはアルマニャック派にとってもブルゴーニュ派にとっても大きな脅威と化していた。「庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られる」とはこのことだろう。

 1419年、この事態を打開しようと、アルマニャック派が後見する王太子シャルル7世が、ブルゴーニュ派のジャン1世に和平交渉を持ちかけた。

 だがそれが更なる悲劇を生むのであった。

和平交渉の破綻と無畏公の横死

 この時まだ正式の王太子であったシャルル7世が、抗争相手のブルゴーニュ公・ジャン1世と和睦しようとした。...