桶狭間合戦、関ヶ原合戦と、いまだ謎多き戦国合戦。合戦に至るまでの経緯や兵法、その合戦の周縁でなにがあったのか。
【北条氏康】地黄八幡の北条綱成
大河ドラマ『どうする家康』にもいよいよ小田原城の北条氏政・氏直父子が登場しはじめた。
さて、戦国大名なら誰にでもあるように、関東の覇者である戦国北条家にも、複数の男色の逸話がある。そのうち北条氏康と北条氏直に関するものを拾い出してみよう。
北条家には「五色備え」という軍装を同色で統一させた精鋭部隊があったという。そのうち黄備を担当する北条綱成(1515〜87)は、黄地に八幡の字を大書させた軍旗を用いていた。綱成の武勇を知る敵方は、同旗を見るや顔色を強張らせたという。
綱成は主君・北条氏康(1515〜71)からの信任が厚かったことでも知られる。主従の結束をよく伝えるのが、「河越合戦」である。天文15年(1546)、綱成が守備する河越城を関東中の大軍が取り囲んだ。その数、約8万に対し、河越城には数千の兵しかいなかった。それでも綱成は主君を信じて、半年ものあいだ城で踏ん張った。
氏康は駿河今川家との抗争でなかなか救援に向かえなかったが、当主・今川義元に譲歩を重ねて和睦を取り付けると、手勢を率いて綱成の救援に急いだ。
だが氏康の兵はわずか8千。関東連合軍に太刀打ちするには厳しいものがあった。氏康は敵軍に使者を遣わし、「開城する代わりに綱成および城兵を助命されたい」と願い出た。ところが圧倒的優勢にある関東軍にこれを容れる理由はない。追い詰められた氏康は決死の勝負に出た。夜襲に出たのである。...