桶狭間合戦、関ヶ原合戦など、いまだ謎多き戦国合戦を最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(発行:(株)日本ビジネスプレス 発売:ワニブックス)が発売中の乃至政彦氏。連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回はドンレミ村を出たジャンヌの話。叔父と一緒に近くのヴォークルール
(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①
(3)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門②
(4)第一章 村娘の冒険①
(5)第一章 村娘の冒険②
(6)百年戦争とフランス王国の分裂
(7)ブルゴーニュ派とアルマニャック派とイングランド
(8)シャルル7世の義母ヨランド
(9)リッシュモンの活躍
(10)オルレアンの抵抗
(11)1412年、祭日の夜に生まれたジャンヌ
(12)ドンレミ村で孤立するジャンヌの父
(13)ドンレミ村を出た子供
・婚約訴訟
・ジャンヌ・ダルクの旅立ち
・ヴォークルールのボードリクール
・司令官と村娘の初対面
婚約訴訟
ところでいつの時期か不明だが、ジャンヌは1431年の処刑裁判における3月12日の記録で、「ある男」の働きかけによって「トゥールの教会裁判所」まで召喚され、「結婚に関する訴訟」を受けたことを認めている。
有名なジャンヌの婚約者問題である。だが、この記録以外に確かな史料が何もなく、その実態がよくわかっていない。この記録は人々の想像力を強く刺激する。
ジャンヌは「この男と結婚の約束をしたことはなかった」とも述べており、訴訟自体は事実だったと考えなければならない。
処刑裁判の記録は「数回」の召喚により、ジャンヌが所持金を使い果たしたことを主張をしているが、真偽のほどは定かでない。なぜなら、この裁判はこの事件の内容をジャンヌに伝えることで、なぜ訴訟問題になったかを追及し、それはジャンヌが不貞な女性であったからだとする印象操作の材料にしているからである。
処刑裁判では「この男」が、ジャンヌがヌーフシャトーの宿屋「ラ・ルース」で、兵隊たちを相手に宿無し娘たちと一緒に生活していることを嫌って「結婚を拒否し、訴訟が終わらぬままに死んだ」ことを主張して、ジャンヌに確認を求めている。ジャンヌはこれについては前述の通りであり、これ以上述べる必要はないと返答を拒否している。
なお、「この男」をジャンヌと同い年の自作農「ミシェル・ルビュアン」とする説もある。しかし処刑裁判はこの男がすでに故人としているが、ルビュアンは1456年の復権裁判においても証言者としてまだ生存している。
また、ルビュアンはジャンヌが旅立つ1428年に「一年以内にフランス国王を戴冠させる」と伝えられ、実際に「その翌年国王はランスで戴冠した」とも述べている。これをふたりの親密さを示しており、婚約関係にあった証跡と見る向きもあるが、旅立ち寸前にジャンヌが本心を伝えているところから鑑みて、彼がジャンヌと訴訟関係にあり、ここに彼女が「数度」に渡って「トゥールの教会裁判所」に通っている時期が挟み込めるは思われない。
もちろんジャンヌがその後に甲冑を着て、救国の英雄と化していた時期に訴訟が可能だったとも思われず、ルビュアン婚約者説は、想像力の飛躍が重なっていると見るのが妥当であろう。
裁判記録を読むと、ジャンヌが単身で行動したように受け止めてしまいがちだが、それは裁判側の印象操作の結果と思われ、実際には家族と共に行動したと見るのが適切ではなかろうか。
トゥール(toul)という場所はドンレミ村から徒歩約8時間ほど北方にあり、未成年の娘が1人で往復するようなところではない。それに彼女は文字の読み書きもできない無知な村娘に過ぎなかったので、少なくとも父母のどちらか一人は同席していたに違いない。
ジャンヌが言うには、「声」は「トゥールの裁判で同女(ジャンヌ)が勝つことを保証」したようだが、13歳の時この声に「処女を守るという誓い」をしたと言うから、ジャンヌ本人が婚約の事実はなかったと述べているのは事実だろう。
すると、裁判側が婚約破棄をしたのは男性の側としていることから、これは父親がジャンヌに断りなく、婚約の段取りを進めていた結果、これが破綻した結果、父母のいずれかに伴われて、不本意な裁判に同席させられただけなのではなかろうか。
ジャンヌ・ダルクの旅立ち
ドンレミ村のジャンヌが13歳の頃から聞こえ始めた「声」は、次第にその頻度を増して、16歳の頃までには「お前はフランスに行かねばならない」と週に2〜3回ずつ伝えるようになる。最終的には「お前はオルレアンの包囲を解除するだろう」とまで告げてきたという。...