桶狭間合戦、関ヶ原合戦など、いまだ謎多き戦国合戦を最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(発行:(株)日本ビジネスプレス 発売:ワニブックス)​が発売中の乃至政彦氏。連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回はジャンヌの進発について。

シノンではジャンヌの審査が進められる中、援軍の準備が整えてられていた。ジャンヌのために特注された武装、戦争の専門家と兵士たち。そして、ジャンヌの援軍を劇場型に演出する書状の作成。イングランドは「ラ・ピュセル(乙女または女中)」を称する謎の女性になにを思っただろうか。

左から、聖カトリーヌ教会のステンドグラスとジャンヌ像 写真/神島直生

シノンからの進発

 ジャンヌは、「聖女カトリーヌの教会で発見された」剣を気に入っていた。しかし剣には特別な儀式を施すことなく、一般兵士が普通の武器を帯びるようにこれを携えていた。

 彼女がこの剣を抜いて戦うことは一度もなかった。自身の証言によると、「剣より旗の方が四〇倍も好きだった」といい、「敵を襲う場合は、人を殺すのを避けるために自分で旗を持った」のだという。そして「また実際に誰も殺したことはない」と明言している。剣はあくまでも指揮具、装飾のひとつとして所持することにしたのだ。

聖カトリーヌ教会内の壁の窪み。「ここでジャンヌの剣(エペ)が発見された」と記載されている

 彼女が戦場で振り回した三角状の「旗」は、絵描き職人がトゥール貨幣25リーブルで、「天地を手に載せた我が主がかたどられていて、傍に天使」を描いたものである。25リーブルは、現代日本だと新卒の初任手取りぐらいになるだろう。

聖カトリーヌ教会内に展示されている再現されたジャンヌの旗

 ちなみに彼女の甲冑(18〜20キログラムほどの重さ)も専用の特注品で、これを製作した職人ジラ・ド・モンバゾン(トゥールのルベール街に住んでいたと見られる)は、トゥール貨幣100リーブルの報酬を得ている。現代日本で70万円ほどになろう。

 装備一式が整えられるのと別に、兵も集められていた。

 ジャンヌがいうには、王太子シャルル7世からに「一万乃至一万二千の兵士」を与えられたという(高山一彦氏は、実数を「せいぜい二、三千と考えられている」と試算する)。

 兵たちはジャンヌがポワティエで審査を受けている間、王命によって集められたようである。

 3月22日、ポワティエの審理はまだ継続していたが、ジャンヌは開戦準備としてポワティエからイングランド陣営に、口述筆記による「和平」を勧告する警告の書簡を送らせた。

 その宛先は、「フランス国王摂政を称するベッドフォード公」(ジョン・オブ・ランカスター。パリにいて作戦全体の総指揮を執っていた)と「サフォーク伯ウイリアム・ポール」(オルレアン攻囲の現場責任者)と「ジョン・タルボット」(イングランドの武将)、「およびベッドフォード公副官と称するトーマス」(ランカスター副官)で、イングランド側にすれば、これが「天国の王である神から遣わされた乙女」と称する不気味な女性とのファーストコンタクトであった(『処刑裁判』)。

ジャンヌ状の内容

 この書簡はジャンヌの生涯随一の長文で、彼らに「フランスにおいて占領・掠奪した町々」の支配権を返却し、「その代償を支払い、乙女の意にかなうなら」、すぐにでも和平に応じるという高圧的な主張から始まる。...