桶狭間合戦、関ヶ原合戦など、いまだ謎多き戦国合戦を最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(発行:(株)日本ビジネスプレス 発売:ワニブックス)​が発売中の乃至政彦氏。連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回は、オルレアンを守る「私生児」デュノワについて。

イングランド軍によるオルレアン攻囲が長期化して、両軍のなかで士気の乱れが生じる。そんな中、オルレアンの総指揮を取る「私生児(バタール)」デュノワは、東の地方で「乙女」を称する若い娘が、オルレアン解放に向けて動き始めたという噂を聞きつける。援軍を無事に引き入れるため、デュノワは一計を案じることにした

左から、シノン城とその浄化ジャンヌが馬を降りる際に足を置いたとされる井戸 写真/神島真生(以下同)

イングランド軍側の確執

 ジャンヌ・ダルクは、オルレアンに向けて進発した。

 前にも述べたように、処刑裁判時のジャンヌは「一万乃至一万二千の兵士」を与えられたと称したが、これはシャルル7世の威勢を強調するための誇張があって、正確な人数ではなく、実数はその3割以下と思われる。

 彼女自身、自分を指導者として推戴する将兵の人数をまともに把握していなかったといえる。

 オルレアンではジャンヌが到着する前の3月末から4月初頭までに「乙女」の噂が届いており、市民は援軍への期待感を高めていた。

 また、オルレアンの攻囲は、不完全のままであった。そもそも中世の軍勢が城を囲んで攻めるのに完全包囲できた試しは、滅多にあるものではない。

 例えば、オルレアンからは1428年11月9日にラ・イールがオルレアンを離れて、トゥールに赴き、町の参事会で支援を求めて、軍資金600リーブルを持ち帰っている。ラ・イールはシノンまで出かけたこともあった。

 また、200の兵を連れたルイ・ド・キュラン提督の援軍がオルレアンの防衛部隊に参加している。もっともキュラン提督はニシン合戦の敗北を見て、オルレアンから立ち去ってしまっていた。軍司令のサント・セヴェールもニシン合戦で戦死した義兄の遺産相続のため、町を離れていた。

破綻したデュノワ降伏交渉

 一方で、イングランド軍も、いささか厭戦気分が高まり始めていた。...