「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は上杉謙信の死について。上杉謙信最後の遠征予定地は、関東であるとともに、畿内でもあった。謙信はこの両面作戦をどのように展開するつもりでいたのか。そして周辺の大名たちは、謙信の動きに無策であったのか。謙信最後の遠征を未曾有の危機と受け止め適切な対応を模索してしまったがため、窮地に追い込まれる武将もいた。松平元康と徳川家康である。(全3回)
春日山城の上杉謙信像

上杉謙信の月命日

 3月は上杉謙信が亡くなった月である。

 私は今月5日で50歳で迎えるが、謙信の享年は49であるから、謙信より長くこの世を見ていることになる。しかし、その実業、遺徳に及ぶところはほとんどなく、せいぜい殺生に手を染めていないことぐらいかと思うものである。

 さて、【戦国ウラ話】はこれから3回、前・中・後で、昨年に埼玉県で講演させてもらった内容を改めた記事をお届けさせてもらいたい。

 上杉謙信の死と、そこから広がった波紋についてである。

謙信の最期

越後春日山城本丸(実城)跡地 撮影/乃至政彦

 天正6年(1578)3月13日、越後の太守・上杉謙信が病死した。

 死因は、同時代史料に「虫気」とあること、後継体制の具体的内容(上杉景勝の実城入り)と家臣への形見分けを指示する「遺言」を残していることから、脳卒中だったとする通説には無理がある。内臓疾患に倒れて病没したものと見るのが妥当だろう。...