「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は上杉謙信の死について。上杉謙信最後の遠征予定地は、関東であるとともに、畿内でもあった。謙信はこの両面作戦をどのように展開するつもりでいたのか。そして周辺の大名たちは、謙信の動きに無策であったのか。謙信最後の遠征を未曾有の危機と受け止め適切な対応を模索してしまったがため、窮地に追い込まれる武将もいた。松平元康と徳川家康である。(全3回)
前編:上杉謙信の死がもたらした波紋
春日山城の上杉謙信像 写真/フォトライブラリー

謙信越山の決意

 越後の上杉謙信は、関東遠征から遠ざかっていた。

 まず天正2年(1574)冬に剃髪して、翌年正月、養子の長尾顕景を「上杉景勝」に改名させた。年始の挨拶には、越後中の武士たちが集まっていたはずである。彼らは袈裟を纏い、頭を丸めた謙信の姿に目を見張ったであろう。

 元亀元年(1570)12月に上杉輝虎から不識庵謙信に改名して年月が経っていた。

 ところで謙信はかねてから新参の馬廻衆に軍役を明確化するようにしていた。新規の馬廻となる者たちに、大小旗・鉄炮・鑓(長柄)・馬上・手明それぞれ武装人数の義務を固体化させて、しかも馬上の者たちには、金色の馬鎧を用意するよう命じていた。

 それが天正3年2月16日、馬廻衆に取り立てる新参の(あるいはその家督を相続する)個人に対してではなく、国内の諸将に軍役の指令を明確化するよう「御軍役帳」を作成させた。

 ここに謙信の馬廻は、越後一国規模に一挙拡大されたわけである。しかし、彼らには金の馬鎧を指定しておらず、既存の馬廻衆とは差別化を図ったものであろう。

 近世の大名は、転封などの影響もあって家中の領主層を自身の旗本同然に大名が一括して統制する体制に移行していくが、謙信はここに前代未聞の軍制改革を強行したようである。

 自ら法体となったインパクトと、景勝への実権委譲を宣言することで、改革を誘導したものと考えられる。

 近世軍記に、謙信が軍中に単騎で乗り入れ、自らの通過点を境目として、部隊を分割再編した逸話が複数伝えられている。主人と従者が離れ離れになっても合流は許されず謙信は全ておのれ個人の軍隊として直接統御したという。

 これは「御軍役帳」の成立と符合する。

 しかも同年4月24日の願文において、謙信は家中に重大な宣言をした。まず「当家分国」に災いなす北条氏政の「非分」について、越相同盟を一方的に破棄したこと、「弟の三郎(景虎)ならびに代々忠信を仕ってきた遠山父子」を見捨てたこと、関東公方足利藤氏を切腹させたことを強く非難した。また、「謙信は筋目を守り、もっぱら天道を為し、順法の弓箭に及んできた」と自らの正当性を主張し、「当年中に関東を思い通りにして、北条氏政一類を退治する」と堂々祈念している。

 謙信は氏政を討ち取ることこそが「皆令満足」だと考えていた。自ら法体となったのも、景勝の後継体制を強化したのも、そして軍制改革を推し進めたのも、目的は氏政討ち取り1点に集約されるのであろう。

葬送の車懸り

 ここで謙信の軍隊編成と用兵思想について言及しておこう。これは「車懸り」と通称される戦術に特化したものである。...