「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は江戸時代の「石高制」について。個人的に確定申告を終え、税制への関心が高まってきた。ここから 、かつて日本が採用していた米本位制の「石高制」について考え直 してみた。貫高制から石高制への変換は、『戦国大変』 などでも論じてきたが、説明に不足しているところがあると思い、 情報を整理してわかりやすく伝え直していく。
貫高制とは?
徳川幕府は、米の取れ高を、財政基盤の土台においた。
米本位制として石高制(こくだかせい)を、日本全土に適応させたのである。
たとえば加賀百万石(1石を27万円と試算するなら、2700億円相当)という国力表現も、米の収穫量のことである。
領主は米を「年貢」として百姓から徴収する。そして自分たちが消費する以外の米を商人に販売し、ここで得た代金を物質の購入に充てていた。
こうして近世日本はかえって貨幣制度も活性化することになり、ついには銅貨の鋳造を開始して、独自の硬貨を使用するに至った。
しかし、なぜ日本の武家政権は米本位の制度を採用したのだろうか。
この問題は過去に何度か取り組んできたが、複数の方から「その通りかもしれないが少し複雑で理解しにくい」という指摘を頂戴しているので、今回はより明瞭に説明していこう。
石高制以前は銭を徴収していた
戦国時代後期までの日本は「貫高制(かんだかせい)」といって、貨幣制度を採っていた。民衆の納税を貨幣(かへい)で集めていたのである。...