名胡桃城事件から
本能寺の変から8年、織田信長の家臣から一代で成り上がった豊臣秀吉は、今や天下の権を得ようとしていた。秀吉は、畿内から九州・四国までを制圧して、ついには徳川家康をも傘下に組み入れ、もはや天下統一まであと少しであった。
一方、戦国時代そのものを体現するような独立的な大勢力が関東の覇者として君臨していた。小田原城を拠点とする北条氏政である。
北条家は、伊勢宗瑞(そうずい/北条早雲)以来5代に渡って勢力を広げており、特に氏政は、小田原城を攻めてきた上杉謙信や武田信玄を退けさせた実績を誇る。しかも既存の領主層を介さず、直接的に百姓を統治する民政ぶりには定評があり、自らの勢力を「国家」と自認するほどであった。
だが、関東には反北条派の領主が多く、彼らは秀吉に北条を非難する声を伝えていた。
これに困ったのは秀吉だった。統一事業を進めてはいるが、なにも戦争が好きなわけではない。まずは関東・奥羽に私戦を停止させる惣無事の令を発し、氏政に上洛を要請した。
上洛は、豊臣氏への従属することを意味する。氏政は覚悟を決めていた。ところが上洛の期日を前にしてとんでもない事件が起こり、豊臣・北条両家の関係が破綻した。
発端は天正17年(1589)10月末に、北条氏邦(氏政弟)家臣の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田領の名胡桃(なぐるみ)城を奪取したことにあった。
この「知恵分別もなき田舎侍」にしてやられた真田昌幸は、事件の経緯を秀吉に報告する(『北条記』)。氏政はこの事件を小さな私的紛争と弁明したが、氏政・氏邦の同意なく一領主がこのような事件を独自に起こすことは考えにくい。
昌幸も「田舎者」の短慮にしてやられるほど甘くない。バックに北条家の思惑があったと見るのが適切だろう。秀吉は事件の勃発自体を問題視した。
そもそも秀吉が「大きな御家のことであるし、戦の世には行き違いなどよくあることだ、なにか理由があるのかもしれない。家中の侍がやったことなら擁護するのも当たり前だ」と耳を貸してやることはできない。戦国以来の風習だからと、布令に例外を認めていたら、統一政権が成立しないからだ。
名胡桃城事件は、惣無事令違反である。同年12月、秀吉は氏政を勅命に逆らう悪人だと糾弾した。
24日、秀吉は小田原城を攻めるべく諸大名に動員令を発した。
北条氏政・氏直の覚悟
氏政・氏直父子も合戦が不可避と判断してからは、徹底して秀吉に対抗する構えに出た。勝ち目が何もないわけではなかった。...