「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は北条氏政と豊臣秀吉について。豊臣秀吉と北条氏政・氏直父子が戦った小田原合戦。一般の認識として、北条軍は圧倒的な物量を誇る豊臣軍に無策なまま大敗して滅亡したと見られている。だが、豊臣軍も大量動員するだけでも大変なのに、北条の防御が手堅いことから長期戦を覚悟して戦争準備を進めなければならず、前代未聞の作戦を立てる必要があった。よく観察すると、どちらもギリギリの戦いに直面していたのである。勝利を見据えた北条軍の決戦構想と、兵站の問題で崩壊寸前だった豊臣軍の臨機応変な対策ぶりを見ていく。(全3回)
小田原城 写真/shutterstock

東海道方面豊臣軍の兵糧準備

 天正18年(1590)2月、豊臣軍は尾張・美濃・三河・遠江へと進軍を開始する。

 集まった人数は、約7万(毛利家文書によれば「六万七千八百人」)。同時に北関東からは前田利家や上杉景勝らも南下を開始して、小田原に刻々と迫っていく。ここに創立したばかりの天下政権と、関東百年の北条政権が全面戦争に入ることになった。

制作/アトリエ・プラン

 豊臣軍の東海道方面軍が進軍するにあたり、豊臣秀吉は東海道方面に大量の兵糧を用意させ、最前線に送りつけた。

 まず家臣の長束正家(なつかまさいえ)に、米20万石を船で駿河まで輸送して倉庫に集積するよう命じた。現地に到着した「総軍勢」に配らせるためである。

 追加として、黄金1万枚(1枚1両として、2万貫相当。米にすると2万石)を手配すると、「伊勢・尾張・三州・遠州・駿州」の米を買い入れさせ、これも小田原近くまで送るよう命じた(『上州治乱記』、『太閤記』)。

 最初の予定戦場は、伊豆にある山中城である。

 山中城は、駿河から相模に向かう伊豆の箱根道を監視するための防衛拠点である。大軍が小田原城に迫るには、この城を制圧しなければならない。

 北条氏政はここに歴戦の松田康長を配置して、縦横の堀を築かせ、山中城の防御性を高めていた。

 現地を訪れた人なら、入念に仕掛けを施した堅城のひとつで、特にワッフルを想起させる「障子堀」の恐ろしさは、一度見たら忘れられないだろう。

                  山中城の障子堀 撮影/乃至政彦

 大きな堀の上を狭い道が交差しており、攻め手が道を歩いたら格好の的、堀に落ちても這い上がるまで格好の的で、攻める側はどう足掻いても矢玉の餌食になるしかない作りなのだ。

 長期戦間違いなしの完全なる要害である。

 それゆえ秀吉は、それまでの日本史上で用意されたことがないほどの兵糧を準備させた。ここに前代未聞の大作戦が開始される。

飢餓に陥った豊臣軍

 だが、東海道を遠路はるばるやってきた豊臣軍は、飢餓状態に陥った。米の値段が3倍に高騰して、それすらも売り切れてしまい、山を掘り起こして芋を探し出す始末となったのだ。...