実はいい加減だった豊臣軍の兵站
豊臣軍の兵糧は潤沢だったかというと案外そうではなかった。
最初に示した秀吉が正家に命じて駿河に輸送させた兵糧20万石は、前代未聞の大変な量である。
だが冷静に考えてみよう。戦国時代の兵は、1日に1人1升(7.6合)の米を消費していた。
東海道を進む軍勢は、先述の通り約7万人。1石は100升なので、1日の消費量は7万升すなわち700石。20万石からこれを割ると、285日分ほどになる。
分量は充分だが、問題は輸送力である。当時の輸送船である関船は、100〜500石積みで、20万石を輸送するにはこれを400〜1600隻用意しなければならなかった。
これがどれぐらい困難だったかというと、文禄の役で朝鮮半島に出兵していた豊臣軍の総員撤兵に動員された船舶数は、469艘。そして撤兵が完了したのは2ヶ月半で、往復にこれだけの時間を要している(中井俊一郎『知られざる三成と家康』2023)。
小田原合戦の豊臣軍はこの規模に相当する動員を実行したはずだが、初めての試みであったので、“想定外”の混乱は山のようにあっただろう。後述する理由から、輸送スタッフもそれほど焦ってはいなかったはずだ。
それが氏政の罠により、兵糧輸送の遅れは大変な事態を招いた。ゆえに豊臣軍先鋒は、まともな食事が取れなくなり、高値の米を買い漁ったり、芋を掘り起こしたりすることになった。
そして現地で買い取れる食品はここに尽きてしまった。もはや、明日を生きるための兵糧がない。兵糧がなければ、継戦能力はそこで終了である。
伊豆山中城を抜かなければ、北条の本拠地・相模小田原城へ向かえない。これでは兵站の準備などないに等しい。
それでも戦国時代は、こういうやり方で問題なくやっていた。だから秀吉の小田原侵攻作戦は、常識の範囲で不備があったわけではない。
なぜなら将士の兵糧は、配給制ではなく、自弁(手弁当)と現地調達がメインであった。自弁というのは自費である。
当然のことだろう。
例えば、この戦争に従軍する徳川家康は、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を領していた。ここに秀吉が「全軍の兵糧は予が用意して進ぜよう」と全ての物資を渡してくれるわけがない。むしろ米一粒すら渡さないのが普通だろう。江戸時代の参勤交代がそうであったように、「全て自費でなんとかしろ」が普通だったのである。
秀吉が送らせた兵糧は、あくまでも「もしもの時の予備」であったと思われる。そんなものなくても普通はなんとかなっていた。戦国の兵糧は、現地取引に依存していたらである。
戦国遠征軍の兵糧事情
戦国時代に、万単位の将兵を動員して、これに残らず兵糧を継続的に輸送して配給する体制は、どこにもなかった。近現代的な兵站は、まだ世界の多くになかったので、無理もないことである。秀吉はこれを熟考して初めての大量輸送を検討し、長束正家に買い付けと輸送を指示したのだろう。...