今回から不定期で【乃至政彦講演アーカイブ】をお届けいたします。今回は平成30年(2018)新潟県の新聞社に寄稿した文章です。
※本稿は、『歴史ノ部屋』会員に公開するにあたって、当時のレジュメ・テキストにわかりやすく修正を加えています。オリジナルのものとは異なるところがあります。ご了承ください。
上杉謙信と武田信玄
日本史で有名なライバルを問われたら、上杉謙信と武田信玄を挙げる人は多いだろう。ではふたりはなぜ争ったのか、どうして何度も衝突を繰り返したのかと問われるとどうだろうか。ここでは両雄の性格と当時の状況から闘争の背景を追ってみたい。
謙信と信玄は地元で成功した屈指の戦国大名である。しかもどちらも天下に望みがあり、人々はその一挙一動に注目していた。ただ、ふたりの理想とする天下の筋書きは大きく異なっていた。謙信は力を失って久しい幕府政治の再建を理想視し、秩序回復のための戦いを常とした。対する信玄はそうではなく、いまは乱世と割り切って戦うことで力をつけた。どちらも天下は自分が変えてみせるとの強い意志をもち、越後と甲斐に君臨していた。
はじめは地域紛争だった川中島の戦い
1550年ごろ、内乱続きの越後を統一したばかりの謙信のもとへ、信玄に領地を逐われた信濃の領主たちが亡命してきた。かれらは謙信に旧領奪還のための支援を請うた。1553年、これに応じた謙信が軍勢を催すと、信玄もまた応戦するべく軍勢を発して、両雄は北信濃の地で対峙した。第一次川中島合戦である。激戦区となったのは、布施の地(長野県長野市篠ノ井)であった。
謙信は若いながら合戦に手慣れており、戦況は謙信優位に進み、信玄を塩田城に押し込んだ。謙信の勝利である。...