「歴史ノ部屋」でしか読めない、戦国にまつわるウラ話。今回は毛利輝元が発した男色禁止令について。

 江戸時代初期、防長の毛利輝元は家中の治安が乱れていることを憂慮して、6条の法度を考案した。その中には、博打や辻相撲の禁止とともに、男色への厳しい停止命令もあった。「恋人同士であっても、今日すぐに別れろ」というのではある。

 では、それまで毛利家は男色とどのように付き合っていたのだろうか。これを安国寺恵瓊の書状から推測してみよう。

毛利輝元像

慶長13年の毛利宗瑞法度

 徳川幕府初期の慶長13年(1608)5月13日、60歳になった防長の毛利輝元(輝元は家督を嫡男の毛利秀就に譲って引退し、法号「宗瑞」を名乗っていた)は、毛利家中の乱れを憂えて、お触書を発した(「毛利宗瑞法度案文」)。

 そこにあるのは、全6条の禁令である。

 第一に「かぶきひと」の禁止。

 第二に「若衆」関係つまり男色の禁止。

 第三に「辻相撲」の禁止。

 第四に鈴のついた猟犬殺害の自粛。

 第五に他人の猫を勝手に捕まえることの禁止。

 第六に小者による博打禁止、石垣の詰石の取り出しと落書きの禁止。

 以上である。

 毛利家について調べると、これらはどれも輝元の急な思いつきではなく、我慢ならないような憤りが背景があるように思われる。今回はこのうち2条目の男色について触れるつもりだが、その前に6条目の後半に、お城の石垣の詰め石を盗んだり、落書きしたりするなと書いてあることについて見てみよう。毛利家では過去にこんなことがあった。

五郎太石問題

 事件とは、五郎太石(ごろたいし)問題である。...