桶狭間合戦、関ヶ原合戦など、いまだ謎多き戦国合戦を最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(発行:(株)日本ビジネスプレス 発売:ワニブックス)が発売中の乃至政彦氏。連載中の「ジャンヌ・ダルクまたは聖女の行進」、今回は、ジャンヌの投獄と戦友ジル・ド・レの行動について。
敵方に攻囲される町を救おうとジャンヌ・ダルクは単独で加勢に向
(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①
(3)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門②
(4)第一章 村娘の冒険①
(5)第一章 村娘の冒険②
(6)百年戦争とフランス王国の分裂
(7)ブルゴーニュ派とアルマニャック派とイングランド
(8)シャルル7世の義母ヨランド
(9)リッシュモンの活躍
(10)オルレアンの抵抗
(11)1412年、祭日の夜に生まれたジャンヌ
(12)ドンレミ村で孤立するジャンヌの父
(13)ドンレミ村を出た子供
(14)司令官への訴えはジャンヌの実母が主導した
(15)ジャンヌ・ダルク傀儡説の真偽
(16)人工聖女を創出した人々
(17)シノン騎行の若き護衛たちと男装の村娘
(18)人工聖女とシノンの王太子
(19)オルレアン籠城戦とニシン合戦
(20)ジャンヌの進発
(21)デュノワの時間稼ぎ
(22)小勢でオルレアンに入ったジャンヌ
(23)ジャンヌ派の躍動とオーギュスタン砦の奪還
(24)トゥーレル奪還とオルレアン解放
(25)フランス王国軍の逆襲
(26)パテー会戦
(27)シャルル7世のランス入場
(28)国王の戴冠と公国の陰謀
(29)フランス王国軍の敗戦
(30)資金難と新たな人工預言者
(31)囚われた奇跡
・落日のコンピエーニュ
・現場にいた証言の違い
・乙女の投獄
・戦友ジル・ド・レの動き
・異端審問のジャンヌ
落日のコンピエーニュ
パリ市民はその日記に、敵方の群盗たちがジャンヌのことを「かの女はまだほんの幼かった頃、子羊の群れの番をしていた。また、森や野原の鳥は、かの女が呼ぶとやってきて、飼い慣らされたもののごとく、かの女の膝の上でパンを食べた」と断言したことを書き留めている(堀越孝一訳『パリの住民の日記2』八坂書房、2016)。
ブルゴーニュ派は、このような話はアルマニャック派の流した噂だと疑っていた。実否がどうであれ、ジャンヌ側が業績を広ければその分だけ、噂は大きく広がっていく。それがジャンヌの魔力であり、奇跡そのものであった。
1430年4月4日、ブルゴーニュ公フィリップ3世は、コンピエーニュの町の支配権を主張していたが、コンピエーニュがこれを拒絶したため、リニー伯ジャン2世・ド・リュクサンブール公を派遣した。
続けて5月6日、フィリップ3世も攻撃のため、軍勢を催し、町の北にあるノワイヨンを発った。
14日、知らせを受けたジャンヌは誰も対応に動かないことに苛立っていたものか「非常に機嫌が悪かった」という。そして味方を集めることなく単独でシュリー城を発った(ペルスヴァル・ド・カニーの年代記。レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』)。
クレピー=アン=ヴァロワを介して現地についたジャンヌは、24日早朝のうちに敵方の目を潜り抜けて、町に入った。そこで町の守備兵と共に連携して、敵軍を追い払う作戦を固めたのだろう。同日夕方、ジャンヌは町から外に打って出た。
軍馬に跨るジャンヌは、兵と共に跳ね橋を進み出ると、その左右にある堡塁をも抜けて、「仲間と共にリュクサンブール殿の兵士達を攻撃」した。
しかも敵兵を2回までも敵兵を後退させ、その陣地に差し迫った。緒戦は優位であった。
ところが3回目でイングランドの兵たちがジャンヌ隊の退路を塞ぐように回り込んできた。
危機を察したジャンヌたちは戦場から撤退しようとしたところ、跳ね橋近くの堡塁でジャン配下のライオネル・ド・ヴァンドンヌに捕らえられた。
現場にいた証言の違い
なお、現場にいたブルゴーニュ公お抱えの文人ジョルジュ・シャトランは『年代期』(1419〜74までの記録)で、町の守備隊長ギヨーム・ド・フラヴィーがジャンヌが町に退避しようとするのを知りながら、敵兵の乱入を恐れて跳ね橋を上げたことを記している。
だが、ジャンヌは自身の異端裁判において、コンピエーニュの跳ね橋から町の中へではなく、ピカルディー方面へ向かおうとしたところで捕まったと述べており、双方の証言に違いがある。...