常陸の不死鳥と呼ばれる戦国大名・小田氏治。
連戦連敗のデータをベースに 「戦国最弱」と呼ばれることも多く、あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか……?
「小田氏治の合戦」をテーマにその実像に迫りなおしていく連載。今回は小田氏治の実父・小田政治について。
小田政治は関東永正の乱で所属陣営を何度も変え
小田氏治の父母
常陸国小田15代の小田氏治(1531?〜1601)の実父は、小田政治(まさはる)(1492〜1548)である。『小田一流系譜[上]』は「政」の一文字を「管領上杉憲政ノ一字ナラン歟」と推測している。政治はかつて上杉憲政が決起した河越合戦(1546)で、陣代として重臣・菅谷隠岐守(貞次。勝貞の実父とされる)を派遣している。だが政治は、「憲政」誕生以前から「政治」を名乗っている。ちなみに同書は「室町将軍家ノ御末子」との異説も記すが、ひとまずこちらの検証は遠ざけておく。
氏治実母は、結城支族の佐山長朝の娘、または鯨岡(くじらおか)城(所在地不明。上曽城または根古屋館と推定される)の城主・上曾治重(うわそはるしげ)の娘と伝わる(『[校訂刪補]常陸八田家小田氏系図)』)。
どちらの説も他の史料に裏付けがない。佐山氏は享禄4年(1531)2月24日に亡くなったという。
父・小田政治の死
亡父・小田政治は血塗られた生涯を送ってきた。...