常陸の不死鳥と呼ばれる戦国大名・小田氏治。

 連戦連敗のデータをベースに 「戦国最弱」と呼ばれることも多く、あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか……?

「小田氏治の合戦」をテーマにその実像に迫りなおしていく連載。今回は前回に引き続き、小田氏治の初陣「柄ヶ崎合戦」について。

 小田氏治の初陣は、思わぬ形で敗北に終わった。それにしても父親の小田政治はまだ現役の武将であったが、なぜこのような苦しい戦いに我が子を派遣させたのだろうか。

 これは獅子が愛息を「千尋の谷」に叩き落として教育しようにとしたわけではない。まったくそれどころではない、余裕のない状況であったから、有能な家臣たちを左右につけて、氏治単独で動いてもらったのである。

『戦国の不死鳥 小田氏治』
(1小田氏治は「讃岐守」だったのか?
(2)武によって生き延びた父・小田政治の死
(3)上杉謙信と激闘した山王堂合戦(前編)
(4)上杉謙信と激闘した山王堂合戦(後編)
(5)天文15年2月4日の小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」(前編)

(6)天文15年2月4日の小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」(後編)
・小田氏治の戦い
・菅谷貞次の眼力
・連戦連敗の最中
小田氏治像 法雲寺蔵

小田政治の戦い

 しかしこの合戦の時期、まだ若い小田氏治の実父・小田政治が健在であった。なぜ政治が自ら「柄ヶ崎合戦」に赴かなかったのか?

 それはほかに深刻な事態が続いていたからである。

 その前年(1545)、小田家臣の薗部(そのべ)宮内大輔は、政治に不満を募らせており、主君・政治(1492〜1548)が横領していた小河城の奪還を試みて、政治と敵対する大掾(だいじょう)貞国に娘を嫁がせるなど、独自の動きを進めていた。

 政治はこれを不快に思い、園部宮内大輔と対立関係に向かいつつあった(『園部氏譜』)。前準備を整え終えた薗部宮内大輔は、江戸忠通や結城政勝の援軍を得て、常陸国小河城を攻略。

 天文15年(1546)4月6日夜、1500騎の大軍を率いた政治は小河城を囲むと、忍びの者を放って奪還を図った。この奇襲で30人以上の敵を討ち取ったという(『烟田旧記』)。

 だが、結果は失敗に終わり、短期間の落城を果たせなかった。その間に結城・大掾、そして江戸忠通まで園部方についたので、政治は小河城攻めを諦めることになる(「園部状」/『新編常陸国誌 第八巻』『胤信筆記』『常陸治乱記』)。

 そんな最中の同月中、武蔵国では足利晴氏・上杉朝定・上杉憲政連合と、相模国の北条氏康が対決する「河越合戦」があった。...