常陸の不死鳥と呼ばれる戦国大名・小田氏治。

 連戦連敗のデータをベースに 「戦国最弱」と呼ばれることも多く、あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか……?

「小田氏治の合戦」をテーマにその実像に迫りなおしていく連載。今回は小田氏治の初見文書について。

 小田氏治は19歳にして、その初見文書が現れる。

 内容は、2人の領主に対する所領安堵で、そこには「永遠に守ります」という文言も見られる。

 両文書の内容から、当時の氏治が感じていたプレッシャーと堅実な対策ぶりを認められる。

 今回はその文書を読み進めてみよう。

小田氏治像 法雲寺蔵

小田氏治の勢力圏

 家督を相続した翌年の天文18年(1549)10月、19歳の小田氏治は、常陸国内の中原なかはら左近将監(さこんのしょうげん)と古尾谷彦四郎(ふるおやひこしろう)に安堵状を発給した。これが氏治が書き残したものでは初見の文書(もんじょ)史料である。

 内容は次の通り。

【小田氏治安堵状】(木植中原則雄氏所蔵文書/『土浦市資料集 土浦関係中世史料集 下巻』178頁)

 屋敷一宇如前々可住居事、不可有相違者也
   天文十八年
     十月七日     〈氏治花押影〉
                  中原左近将監殿

【小田氏治判物】(『秋田藩家蔵文書』48号)

 中郡庄之内福田郷永代可被成敗候、恐々謹厳
         天文十八年
               十月七日     氏治〈花押〉
                  古尾谷彦四郎殿

 この時代に大名が所領を認める安堵状と判物は、大名または家臣の代替わりがあったときに発給される。

「私はあなたの所領を間違いなく認めます」とするもので、相手の所領が脅かされないよう公的に認め、保護する証文になる。保護できなかったら、大名はほかの所属領主から頼りにならないと思われて、離反を誘発する恐れがある。

 ゆえにどちらもそう簡単には出せないものである。

小田城から見えにくい中原と古尾谷の所領

 まず常陸国中郡に位置する茨城郡にあった木植きうえ村(桜川市)において、名主的存在だっただろう中原左近将監に「屋敷一宇(一軒の屋敷)」を安堵している。...