信玄上洛
(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場
(13)越相同盟の破綻
織田信長の前歴
(14)弾正忠信秀の台頭・前編
(15)弾正忠信秀の台頭・後編
(16)守護代又代・織田信長の尾張統一戦
(17)桶狭間合戦前夜
(18)桶狭間合戦
(19)美濃平定前の第一次上洛作戦 ☜最新回
・ブランド0からの対外戦略
・謙信と信長のファーストコンタクト
・武田信玄と織田信長の接触
・永禄の変からの信長
ブランド0からの対外戦略
桶狭間合戦に勝利した織田信長は、今川軍の侵攻という脅威から解放された。
これは対外戦略を見直す転換期であった。
まず目をつけたのは、三河の松平元康こと徳川家康である。信長は家康と同盟を結むことで、今川家との緩衝地帯を確保した。そして侵攻方向を今川領ではなく、斎藤一色家が領する美濃へと向けていく。
信長の手には、本妻の実父・斎藤道三からの譲り状があり、美濃一国は道三の遺志を受け継ぐ自らの監視下に置くのが望ましいと考えていたのだろう。桶狭間から1年ほど経つ永禄4年(1561)5月11日、実父(異説もあり)・道三を討った美濃国主の一色義龍が、35歳の若さで病死する。跡目を継いだ嫡男の龍興は、まだ15歳の若さであった。
信長は尾張守護(斯波義銀)を国外に追放したところであったので、自身が尾張外交の主体を担っていた。守護のために──という思考を捨てて、それでいて後ろ指を指されない形で、自分たちのために──対外戦略を進めていかなくてはならなくなっていたのである。
もはや信長の権力は、伝統的権威の尾張守護に保証されていない。守護に見限られ、また見限った身の上である。桶狭間の慌ただしさで批難の声こそ免れていたが、外部勢力からの信頼は一から作り直していくところに立たされていた。
言うなれば、ブランド0である。
ならば、信義を重んじる大名として身を立てていくべきであろう。
永禄6年(1563)信長は、守護・守護代の居城であった清洲から小牧山城へと拠点を移し、美濃侵攻を本格化させる。翌年(1564)3月には、妹の市を近江の浅井長政に嫁がせて、同盟国を増やしていた。美濃侵攻をより一層進展させるためであろう。同年信長は周辺勢力との接触が目立つ。その理由は同年5月、国内の不満分子で美濃に内通する織田信清を攻め滅ぼし、尾張の内情が安定したことにあろう。信清は、甲斐の武田信玄のもとへ逃亡した。
謙信と信長のファーストコンタクト
さて、永禄7年中、織田信長と接触した有力者の一人は、越後の上杉輝虎だった。
輝虎と信長のファーストコンタクトを直接示す史料は検出されていないが、初見となる古文書は、6月9日付の織田信長書状である。...