大事な当主が予期せぬ形で戦死してしまったら、家中が大騒ぎするのは当然のことだ。戦国時代ならそれぐらい想定内だと思うかもしれないが、一六世紀中葉まで案外そうでもなく、当主の跡継ぎが決められていなかった──なんてこともあった。
戦国後期には「このような事態を想定できない領主に武士たる資格などない」とばかりに、もし跡継ぎなく当主が急逝してしまったら、主君がその領地を没収することが定められていく。
ここではこうした跡目相続の問題から、戦国越後北部における女当主の誕生と、戦国時代に見られる史料偽造の疑惑に迫ってみたい。
戦国時代と女当主
歴史の創作物には「おんな武将」がよく登場する。
私の記憶によると、ゲームでは「信長の野望 天翔記(てんしょうき)」(光栄、一九九四)で初めて「姫武将」という概念が登場しており、もはや女性を武将として活躍させるシステムはシリーズ定番と化している。
史実から見て戦場に出たことなどないはずなのに勇ましく武装するゲームの姫君や、または伝承において籠城戦の指揮を執ったとされる奥方もあれば、佐藤賢一氏の『女信長』や篠綾子氏の『女人謙信』のように、史実では男性だった武将が「女体化」された作品など、実在の女性を武将として扱う創作物は多種多様である。そしてその多くは、架空の設定に彩られたものである。
だが、戦国時代には実際に女性の当主も存在した。
女の身でありながら、当主として一族郎党をたばね、戦国を生きた女性たちである。
この記事で紹介する女性は、そんな女当主の一例を示すものだ。
越後の女性当主・水原祢々松
永正三年(一五〇六)閏一一月、越後守護・上杉房能(ふさよし)は、水原祢々松(すいばらねねまつ/弥々松[ややまつ]と翻刻する論考や資料集もあるが、祢々松が正しいようだ)なる女性に次の安堵状を送った。
【部分意訳】
そなたの父・又三郎景家(かげいえ)が去る九月一九日に、越中の般若野(はんにゃの)の合戦で討ち死にしたことを神妙に思う。そなたは女子の身であるが、父の跡目をどうするかよく考え、代官に軍役(ぐんやく)・奉公(ほうこう)を勤めさせたいなら、現在の知行(ちぎょう)経営を引き続き認めることとする。
【原文】(『新潟県史』一五二八号 大見水原氏文書「上杉房能安堵状」)
[水原祢々松女 房能](封紙ウハ書)
父又三郎景家去九月十九日於越中国般若野合戦討死、神妙之至候、雖為女子、遺跡事相計、以代官軍役奉公勤之、当知行領掌不可有相違之状如件、
永正三年閏十一月二十六日 房能〈花押〉
水原祢々松女
こうして祢々松は、父・水原景家の戦死により、遺領を相続したのである。
ほかに戦国時代の女城主で有名な人物としては、遠江(とおとうみ)の井伊直虎(いいなおとら)がいる。直虎(実は男性だと思うが)が当主になったのは永禄八年(一五六五)である。
加えて、筑後の立花誾千代(ぎんちよ)も有名であろう。彼女が「城督(じょうとく)」(当時の西国においてよく使われた言葉で、城代の意味)に任じられたのは天正三年(一五七五)である。
水原祢々松は、二人に比べると知名度では劣るものの、戦国の女城主としては、彼女たちよりも時代が早い。このようにあまり有名ではないが、実は一時期女性が家督を受け継いだという事例は中世にいくつもあったりする。
では、なぜこのようなことが起こったのだろうか。彼女が跡目を受けたのは、「般若野合戦」による父の討ち死にという悲劇的事件がきっかけだった。
ここでその般若野合戦を簡単に説明しよう。
般若野合戦
越後と国境を接する越中に、加賀の一向一揆衆が乱入し、大混乱に陥っていた。越中守護の畠山尚慶(ひさのぶ/後の卜山[ぼくざん])は上方にいて、現地にはいなかった。...