桶狭間合戦、関ヶ原合戦と、いまだ謎多き戦国合戦。 合戦に続くまでの経緯や兵法、その合戦の周縁にはなにがあるのか 。 乃至政彦が最新研究と独自の考察で解明する書籍『戦国大変(仮)』が6月に発売が決定。今回はその中からのちの徳川家康である松平元康の桶狭間合戦の秘話をお届けする。
大高城跡の碑 写真/フォトライブラリー

 戦国の世を終わらせた英傑のひとり、徳川家康──。青年期の家康は、今川義元が期待する将来有望な若武者として育成された。この記事では義元から家康に対する期待度の一端を示す記録に注目したい。

やるべし家康

 永禄三年(一五六〇)の尾お 張わり桶おけ狭はざ間ま 合戦で、徳川家いえ康やす(当時は松平元もと康やす。以後、徳川家康の表記で通す)は兵粮の輸送役を担当した。目標は今川に属する尾張大おお高だか城。家康、当年一九歳の時のことである。

 大高城に物資を運ぶのはかなりの重要任務で、失敗すれば、より大きな作戦そのものが破綻しかねない。

 物資の輸送に失敗するとどうなるか?

 例えば、天正二年(一五七四)下総の羽は 生にゅう城が相さ が み 模 の北条軍に攻められた。羽生城を守る木戸忠朝(きどただとも)は越後・上杉謙信の味方である。

 謙信はこれを救援するため関東に越山して、利根川向こうの城内に兵粮の輸送を試みた。

 だが、かねてからの大雨で増水している利根川のため、物資は「兵糧一粒」すら運び込めず押し流されてしまった。

 謙信はこの失敗を「ばかもの」のすることだと猛省した。結局、羽生城は破却することになり、近くの関せき宿やど城まで北条軍の手に落ちた。

 現地は地形の変化が激しいため、当時の環境を想像するのは難しいが、利根川・渡良瀬川・常陸川が近くを流れる関宿城は、北条氏康が「一国を被為取候ニも、不可替候」(この城の価値は一国にも変えがたい)と評したほどの重要拠点で、その喪失は本当に痛恨事だったのだろう。

 大高城の重要性は推し量りがたいが、それでも大軍を率いて近くまで布陣してきた駿河の太守・今川義よし元もとにとって失敗は許されない重大事だったはずだ。

 そこに器量の浅い木偶ノ坊(でくのぼう)を抜擢することはありえない。家康もこれを支える三河将士も、練度と士気の高い精鋭と認識されていたと考えられよう。

 この時の家康に「どうする」の四文字があろうはずもない。「やるべし」の覚悟であった。

徳川家康はド派手な鎧を着ていた?

 この時、家康は「金陀美具足」を着用していたという伝承がある。金ピカのド派手な甲冑だ。NHK大河ドラマ『どうする家康』では今川義元が家康を厚遇する証として下されるという演出がなされた。ただ実際は戦国期ではなく、近世以降の作品という説もある。...