(2)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門①
(3)序章 ジャンヌ・ダルクと平将門②
(4)第一章 村娘の冒険①
(5)第一章 村娘の冒険②
・村娘の冒険②の前に——魔女とは何か?
・『魔女への鉄槌』刊行
・魔女ジャンヌと背教者ジャンヌ
・聖女の成立
・男装する聖女たち
村娘の冒険②の前に──魔女とは何か?
前回「村娘の冒険①」をお送りしたが、ここで②へ進む前に、「魔女」と「聖女」について説明しておきたい。
ジャンヌ・ダルクには「魔女」として語られてきた歴史がある。しかし公的な機関が彼女を「魔女」として指弾した事実はない。
彼女を処刑した裁判も、明確に「異端審問」であり、いわゆる魔女裁判では全くない。最後までジャンヌを魔女と認定することなく、その裁きを下している。
そもそも魔女とはなんであろうか?
渡会好一氏によれば基本的には「超自然的な魔力が身体に宿っている者」のことである。「一五世紀の前半に、悪魔と契約することで超自然的な魔力を身につけた者、というヨーロッパ独特の魔女観念が生まれ」たという(渡会好一『魔女幻想』中公新書、1999)。
魔女の観念はちょうどジャンヌの時代(1412?~1431)に生まれたといえる。
だが、その普及はといえば、まだまだであった。特に知的階級では、魔女の何たるかが明確でなかったらしい。もともと魔女に邪悪な響きはなく、現代でも手品を「奇術」や「マジック」と呼んで、面白がったり、不思議がったりはしても、そこに善悪の区別がないように、論理的な思考から外れた不思議な術を使う者たちという程度に受け止められていたのだ。
そこに1485年に異端審問官のヘンリクス・インスティトーリスが「インブルックの魔女裁判」を主導して、50名もの魔女容疑者をかき集めた。インスティトーリス熱心な魔女撲滅思想家であった。
インテリな彼は、不合理な存在である魔女が生理的に大嫌いだったらしい。できれば一人残らず根絶してしまいたいとまで考えていた。
ところがその主張は、法的にも倫理的にも問題 ありと見られたらしく、全員が釈放されてしまった。これにインスティトーリスは強い不満を持った。
『魔女への鉄槌』刊行
このためインスティトーリスは、魔女観念を一般化しようと試みる。
彼は、1486年から翌年にかけて出版した『魔女への鉄槌』において魔女の実在とその邪悪さを明文化し、その異端性ゆえに死刑とすべき存在であると主張したのだ。
過激な思想を持つ異端審問官は「魔女を悪魔と結託する異端者」とするだけでなく、「魔女術で悪事を重ねる世俗の犯罪者と捉えていたのであるが、具体的な魔女像がまだ世間に浸透しておらず、[中略]聖俗の両裁判所から反感を持たれ」ていた(奥田紀代子「魔女裁判におけるジェンダー・バイアス」)。
そこでこの問題を克服するべく『魔女の鉄槌』が刊行され、版を重ねて「印刷された本の歴史において最初のベストセラー」になり、「18世紀初頭までにおよそ3万部がヨーロッパで流布した」という(野村仁子「『魔女への鉄槌』研究(1):第一部の分析を中心に」)。
同書の内容は過激で、「男であれ女であれ、信託や予言の精神のある者は死ぬべきである」などと強い主張が繰り返されている。「本来魔女は、宗教的に異端ではなかったが、12世紀の異端運動の終焉と時を同じくして、魔女は異端であるという見解が異端審問官の間に現れ始め、魔女の姿が異端審問の法廷に見られるようになった」という(野村前掲論文、上山安敏『魔女とヨーロッパ学再考』講談社学術文庫、1998)。
さらにインスティトーリスは狡猾にも時の教皇イノケンティウスからインスティトーリスたちの異端審問を肯定する教書を発給してもらい、『魔女の鉄槌』の冒頭に掲載した。それまで各所から批判を集めていた過激派たちの運動は、ここに公的なお墨付きを得たのである。
こうして同書は、広範囲の人々に魔女への嫌悪と恐怖を植え付ける端緒となった。同書は魔女裁判の実務に耐えうるハンドブックとして普及した。
魔女が邪悪で危険な存在だという概念が明文化されたことで、中世末期から近世にかけて横行する魔女狩りの土壌が固められたわけである。
ある意味では、クトゥルフ神話の魔導書並に危険な書籍が作られてしまったのだった。
魔女ジャンヌと背教者ジャンヌ
ちなみにジャンヌ・ダルクは死後、ラファエル・ホリンシェッドの『年代記』(1577年成立)や作者不定のイギリス歴史劇『ヘンリー六世・第一部』(16世紀末頃成立)において、恥知らずで傲慢な魔女だったものとして描写されることになった。医学博士ジョン・コッタの『魔女術裁判』(1616年)においても悪魔と契約した「あの破廉恥な女」とされている。...