桶狭間合戦、関ヶ原合戦と、いまだ謎多き戦国合戦。合戦に至るまでの経緯や兵法、その合戦の周縁でなにがあったのか。『戦国の陣形』『謙信越山』で話題を集めた乃至政彦が、最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変』の発売を記念して、大河ドラマ『どうする家康』でも話題の武田勝頼の実像、信玄の死について、2回にわたりお届けします。
武田勝頼は陣代?
歴史愛好家たちの間で、「武田勝頼は陣代なの? それとも御屋形様なの?」 という議論は歴史好きの間で定番だ。
これについて私はこう考える。
「両方だ。あえてどちらにも定められたことに、信玄の思いがある」
とりあえず議論のベースから説明していこう。
武田信玄の四男・勝頼は、『甲陽軍鑑』によると、信玄の遺言で、「陣代」に定められたとされている。
その理由について、一般的には、武田家中が勝頼の血統と来歴を「武田家嫡男に相応しくない」と見ていた、あるいは「当主の器量に疑問がある」と見ていたから、信玄が彼らの気持ちを思い計り、勝頼をちゃんとした後継にしなかったのだと解釈されている。
そしてそこから、『甲陽軍鑑』は悪意ある嘘を書いたのだとする声がある。
実際、当時の文書を見ると、信玄死後の勝頼は本国の甲斐で「当国守護御屋形勝頼」と記されており、正式な後継者として公認されていたことは間違いない。
では、『甲陽軍鑑』はやっぱり嘘を書いているのか?
私はそうではないと考える。
その理由を、信玄が遺言を語った状況から、見てもらいたい。
武田信玄最後の作戦について
最晩年の信玄は、西上作戦を決行した。
武田軍が、三河遠江の徳川家康の領土に乱入する。
しかも信玄は、織田信長の本国である美濃にまで兵を出した。
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