桶狭間合戦、関ヶ原合戦と、いまだ謎多き戦国合戦。合戦に至るまでの経緯や兵法、その合戦の周縁でなにがあったのか。 『戦国の陣形』『謙信越山』で話題を集めた乃至政彦が、最新研究と独自の考察で解き明かす『戦国大変』の発売を記念して、大河ドラマ『どうする家康』でも話題の武田勝頼の実像、信玄の死について、2回にわたりお届けします。
『甲陽軍鑑』の信玄・勝頼評は?
実は同書を見ると、信玄について、「口中に口臭の元がある」とか「便所を置いた信玄の私室を「山」と呼ぶのは、山には『くさき(草木、臭き)』が絶えないから」などとイメージが悪くなるようなことも普通に書いている。
信長が信玄に対して発した非難の声として「父親の武田信虎を追放して、80にもなるその身を飢えさせている」「息子の武田義信を理由もなく毒殺した」「仏門に入ったのに外には貪欲に他国を侵略して民衆を苦しめ、内には売僧のように破戒を好んでいる」などとする言葉を並べておきながら、本文でまともに弁明もしていない。
また、勝頼には厳しいことも書いてはいるが、天正8年9月の膳城攻めにおいて、武田軍が甲冑も着けないで野戦に大勝利したことを、「信玄公の時代にはなかったことだ」と驚嘆している。
また、翌年2月の伊豆における対北条戦で勝頼が交戦を命令したが、家臣たちが思うように従わなかったことで、「もしあの時に戦っていたら、勝頼公の武運が開けていたはずだ」とその判断の成長ぶりをも書いている。
それに『甲陽軍鑑』は所々で、勝頼のことを「御屋形勝頼公」と書いている。勝頼を正式な家督相続者として認めているのだ。
ここから同書は勝頼を貶める意図があって「陣代」としているわけではないことが考えられる。つまり「屋形」になることと、「陣代」に指定されることは矛盾しないのである。
勝頼は、信玄に愛されていた。家中からその血統または器量に問題があるという声があったとも言われていない。「陣代」にされた勝頼の権力に制限があったわけでもない。
ではなぜ信玄は、勝頼を「陣代」とすることにしたのか。
これは信玄が西上作戦の失敗を埋め合わせようとしたのだろう。
信玄の終活
武田信玄は、外交の手違い、自身の健康の限界により、西上作戦は最悪の形に終わろうとしていた。...