常陸の不死鳥と呼ばれる戦国大名・小田氏治。

 連戦連敗のデータをベースに 「戦国最弱」と呼ばれることも多く、あまり有能ではないイメージが定着しつつある。だが、本当に弱い武将が何度も大きな合戦にチャレンジできるのだろうか……?

「小田氏治の合戦」をテーマにその実像に迫りなおしていく連載。今回は海老ヶ島城の成立と制圧について。

小田氏治像 法雲寺蔵

海老ヶ島城の成立

 

 常陸国・海老ヶ島城(蝦ヶ島城)は、水の平城である。もともと西と南に水地があり、東と北に深田を広げることで四方への備えを固めていた。

 海老ヶ島城は下総国・結城成朝が、常陸国の小田・真壁方への最前線の出城として築城したものと伝えられている。

 伝承によれば、寛正2年(1461)12月29日より築城を開始し、応仁元年(1467)2月に完成させたあと、同月5日に10歳になる息子・秀千代を初代城主として入城させたというのである(『杉山私記』)。

 そして、海老ヶ島に「松原」の地名があるのをもって、秀千代を海老原右近将監輝明と名乗らせることにしたともいうが、現在確認できている歴史と整合性が取れない。

 まず築城開始日がおかしい。この日は成朝の命日なのである。成朝は24歳で家臣に殺害された。

 結城家の跡目は弟の氏広が相続したので、すでに亡くなっているはずの成朝が、息子を城主に任命してその氏名を改めさせることもありえない。

 そもそも10歳の少年に最前線の城を託すのは、有力な家臣が左右にあったとしてもかなり不自然である。

 仮に新しい当主・結城氏広が秀千代を遠ざけたがったもしても、成朝の死後6年も経過してからでは遅すぎるだろう。まるで海老ヶ島城の防備など二の次であるかのような素振りを見せていては、家臣団からの信望をも失なうであろう。しかも遠ざけたい少年を城主にしてしまったら、そこに目をつけた小田や真壁に懐柔される恐れがある。

 こうした背景を鑑みると、成立時期は通説のまま応仁年間の築城としていいかとは思えない。

 不正確な語伝と見るべきだろう。

 ただし、現地の調査によると、15世紀末〜16世紀の「かわらけや内耳土鍋」が発掘されており、小田政治の時代には現役であったと考えてよさそうである(斉藤武士編著『茨城県筑西市海老ヶ島城跡─県営ほ場ほ場整備事業松原地区関連遺跡発掘調査報告書2─』筑西市教育委員会、2006)。

 応仁年間の築城が事実としても、初代城主任命のくだりは、伝承のままであるようには考えられない。

海老ヶ島城の制圧

海老ヶ島城西方の川

 海老原氏はこれ以降、輝明・俊朝の3代に渡って海老ヶ島城の防衛に当たったとされている。...