常陸国の小田氏治は下総国の結城政勝を打ち負かしてやろうと、周囲の動きを慎重に探りながら、長期作戦で侵略の準備を進めていた。
特に重要なのは、海老ヶ島城の防備であった。こちらの態勢が整う前に結城方が小田領に乱入してこないようにするべく、氏治は領民の力を借りて、鉄壁の守りを固めた。
だが老練の政勝は、ピンチをチャンスに切り替えるべく、大胆に動き始め、氏治の計略を一気に覆していく。
(1)小田氏治は「讃岐守」だったのか?
(2)武によって生き延びた父・小田政治の死
(3)上杉謙信と激闘した山王堂合戦(前編)
(4)上杉謙信と激闘した山王堂合戦(後編)
(5)天文15年2月4日の小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」(前編)
(6)天文15年2月4日の小田氏治初陣「柄ヶ崎合戦」(後編)
(7)初見文書に見る氏治の戦争準備
(8)海老ヶ島城の成立と制圧
(9)運命の海老ヶ島合戦前夜(前編)
(10)運命の海老ヶ島合戦前夜(後編)
・関東を二分する決戦が迫る
・先手必勝を選んだ結城政勝
・最初から主導権を奪われていた小田氏治
関東を二分する決戦が迫る
北条氏康は弘治元年(1555)比定の10月19日付・白川晴綱宛岩本定次書状に「来春向小田江可被致調儀由」と述べたように、房総の里見義堯を翌年の春(来春)までに討伐した上で、小田氏治討伐作戦を実行する予定でいた。
ところが里見水軍が予想以上に手強く、予定がずれ込んでしまっており、翌年(1556)の3月17日付の(南陸奥・白川晴綱宛)岩本定次(さだつぐ)(駿河出身の北条家臣。伊勢宗瑞初期からの老臣。北条綱成と親密)書状になってやっと「当夏中、常州江出馬之儀承候、結城・大掾依弓矢之手成」(戦国遺文 後北条氏編』509号文書)とする考えが現れてくる。
氏康は晴綱の要請により、夏になったら結城政勝と大掾貞国(さだくに)と連携して、常陸国へ出馬する旨を伝えているのだ。
これは佐竹義昭と敵対する晴綱が、氏康と義昭が婚姻関係を結ぶ動きがあると聞いて、その動きの鈍さを疑ったことがきっかけであった。
つまり白川晴綱からの連絡がなければ、氏康はまだ房総の攻略に専念するつもりだったのである。
弘治元年(1555)、晴綱は弟の義親と会津の蘆名盛氏娘に縁談を結ばせて、佐竹義昭との戦争に専念する構えを整えており、動かせるものは何でも使ってやる覚悟であった。
小田vs.結城の決戦は、双方が独力で対峙していたのではなく、周囲の関係も絡んでおり、敵の敵は味方、敵の味方は敵というセオリーにしたがって多数派工作と離間工作を固めながら、陣営の明確化が進められていたのである。
ここに関東を二分する勢力構図が作られ、小田氏治・佐竹義昭(および安房国・里見義堯、下野国・宇都宮家中)のゆるい連合と、結城政勝・白川晴綱・北条氏康の密接な連合が睨み合う形になっていったのである。
先手必勝を選んだ結城政勝
小田氏治と佐竹義昭が、氏康の参戦を予想することはさほど難しいことではなかっただろう。同じ陸地の関東でそれなりの人数が動き出せば、その様子は大名・領主層のもとに流れていく。...