(1)企業規模から理解する戦国武士
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
(2)徒士明智光秀の美濃時代
・美濃土岐義純の随分衆から
・斎藤道三という男
・道三と高政の父子相克
・若き日の光秀が美濃で学んだもの
(3)牢人明智光秀の越前時代
・牢人になった光秀
・称念寺近辺の僧侶たちから薬学を学ぶ
・滋賀郡田中城ゆかりの女性と結婚
・〈永禄の変〉と高嶋田中籠城
・明智光秀と幕臣
(4)細川藤孝中間にして将軍足軽
・織田信長との出会い
・信長の上洛
・在京する将軍足軽衆の明智光秀
・本国寺襲撃事件
・二条御所の建設
(5)明智光秀、武将になる
・金ヶ崎合戦
・明智光秀の成長
・比叡山焼き討ちと明智光秀
・旧山門領問題と元亀争乱
・武田信玄、足利義昭の裏切り
(6)前代未聞の大将・惟任光秀☜最新回
・惟任改氏と信長の期待
・事実上の《近畿管領》
・本能寺前年の左義長
惟任改氏と信長の期待
天正3年(1575)坂本城を得てから約4年後、明智光秀は信長の命により、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)光秀に改名した。
この先、光秀は死ぬまで明智の苗字を名乗っていないので、ここからは惟任光秀と呼んでいきたい。
惟任光秀はさらに躍進し、丹波一国を平定すると、これを統治する《国主》となった。当時の評価を見てみよう。
丹波国の惟任光秀は、(織田信長の)御朱印をもって一国を与えられた。時と理運に恵まれたとはいえ、(まさに)前代未聞の大将である。 (彼は)坂本城主にして志賀郡主である。(『立入左京亮入道隆佐記』)
光秀は「前代未聞」の出世を果たし、一個の《武将》から名誉の《大将》へと昇進したのだ。信長が光秀に寄せる信頼と期待は絶大だった。
天正2年(1574)、信長は光秀からの戦況報告を「書中具(つぶさに)候(そうろう)えば、見る心地に候(そうろう)(文章が具体的で、目の前で見ているようだ)」と激賞している。
光秀の活躍を評価する信長は、自分の甥である津田(織田)信澄(のぶすみ)と光秀の娘、ならびに細川藤孝の嫡男である長岡(細川)忠興(ただおき)と光秀の娘を娶せる縁談を結ばせた。
天正8年(1580)、信長は光秀の丹波平定に感動して、「丹波国における惟任光秀の働きは、天下の面目を施した」と大絶賛し、羽柴秀吉(はしばひでよし)以上の活躍だと褒めちぎった。ここまで信長を喜ばせた家臣はほかにいない。
フロイスの証言によると、光秀はそれでも織田譜代の家臣たちからは距離を置かれていた。外様でありながら異例の出世をする様子を妬まれたのだろう。
こうして織田政権でも筆頭クラスの重鎮となった《国主》光秀は、丹波平定という組織の拡大と成長を片付けた後、その内部を固め直す事業に身を置いて重要な大任に携わることとなる。それは「御馬揃え」なるイベントの計画・運用と、新しい「軍法」の制定である。
事実上の《近畿管領》
歴史学者は絶頂期の光秀を《近畿管領(きんきかんれい)》と形容している。一個の《武将》から、何人もの指揮官を束ねる首都圏の総督へ昇進したのである。...