【光秀の武略に学ぶ 目次】
(1)企業規模から理解する戦国武士
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
(2)徒士明智光秀の美濃時代
・美濃土岐義純の随分衆から
・斎藤道三という男
・道三と高政の父子相克
・若き日の光秀が美濃で学んだもの
(3)牢人明智光秀の越前時代
・牢人になった光秀
・称念寺近辺の僧侶たちから薬学を学ぶ
・滋賀郡田中城ゆかりの女性と結婚
・〈永禄の変〉と高嶋田中籠城
・明智光秀と幕臣
(4)細川藤孝中間にして将軍足軽
・織田信長との出会い
・信長の上洛
・在京する将軍足軽衆の明智光秀
・本国寺襲撃事件
・二条御所の建設
(5)明智光秀、武将になる
・金ヶ崎合戦
・明智光秀の成長
・比叡山焼き討ちと明智光秀
・旧山門領問題と元亀争乱
・武田信玄、足利義昭の裏切り
(6)前代未聞の大将・惟任光秀
・惟任改氏と信長の期待
・事実上の《近畿管領》
・本能寺前年の左義長
(7)近畿管領の軍法制定☜最新回
・惟任光秀の先駆性
・戦国期の軍制とは
・光秀のセンス
惟任光秀の先駆性
ここで軍事研究者にも歴史学者にも理解されていない光秀の先駆性を見ていこう。光秀の軍制がどれほど画期的だったか430年以上もの間、的確な評価を得られなかった。なぜなら、わが国には軍事技術の蓄積がどのようになされていたかを体系的にまとめようとする伝統も人物も不在だったからである。
江戸時代に軍学者や兵学者なるものはいたが、彼らの大半は実用性の不確かな自分の流派を宣伝するため、事実ではなく、空想の由緒を主張してきた。これが日本の軍事史研究を滞らせた要因である。
さて、天正9年(1581)6月2日、光秀は文献史学で「明智光秀家中軍法」と呼ばれる軍法を明文化して制定した。
これが何なのかは、軍事文献の読み方と向き合ってこなかった文献史学者には正当に評価する技量がなく、また中近世以降期の軍事史に関心が薄い軍事研究者も、この時代の日本の軍制がどの段階にあったのかを理解していないため、この軍法について注目する向きがない。
ここから光秀の軍法を見る前に、当時の日本の軍制がどこまで発展していたのかを述べてみよう。
戦国期の軍制とは
すでに序章で簡単に説明したが、この時代の大名は城主連合のリーダー格で、上司であるかどうか曖昧な立場にあった。ほとんどの大名はまだ直轄領が小さくて、自分の命令で動員できる兵員がとても少なかった。合戦にやってくる兵の大半は、大名に「味方」する城主たちが動員した人数だった。どの大名もこれをバラして自分の好きなように再編することなどできない。
そこで東国の戦国大名は、自分が直接動員・再編できる兵員を増やすため、直轄領を増やそうと考えた。城主と縁戚関係を結んだり、あるいは城を奪って自分の身内や部下を送り込み、合併・吸収したりしたのである。
こうして「大名─城主─兵員」は「大名─城番─兵員」にされ、大名は各城の兵員を自分の自由にしていった。
早くからこれに成功したのは、東国大名の上杉・武田・北条だった。彼らは大規模の直後兵団を増強して、これの武装統一を他の大名より先駆けて推進した。...