(1)企業規模から理解する戦国武士
・はじめに
・戦国武士の立場
・新しい用兵と軍制
(2)徒士明智光秀の美濃時代
・美濃土岐義純の随分衆から
・斎藤道三という男
・道三と高政の父子相克
・若き日の光秀が美濃で学んだもの
(3)牢人明智光秀の越前時代
・牢人になった光秀
・称念寺近辺の僧侶たちから薬学を学ぶ
・滋賀郡田中城ゆかりの女性と結婚
・〈永禄の変〉と高嶋田中籠城
・明智光秀と幕臣
(4)細川藤孝中間にして将軍足軽
・織田信長との出会い
・信長の上洛
・在京する将軍足軽衆の明智光秀
・本国寺襲撃事件
・二条御所の建設
(5)明智光秀、武将になる☜最新回
・金ヶ崎合戦
・明智光秀の成長
・比叡山焼き討ちと明智光秀
・旧山門領問題と元亀争乱
・武田信玄、足利義昭の裏切り
金ヶ崎合戦
足利義昭と織田信長は、越前討伐を企図する。
朝倉義景が新将軍への挨拶に出てこないことが不味かったが、それ以前の問題として、義昭と信長の主導した上洛作戦に「不快」と異論を唱えたことが許せなかっただろう。しかし義景にも言い分がある。義昭は自分に断りもなく密かに信長を頼り、それで美濃へ移って上洛を実行したのだ。義景は義昭のせいで面目を潰されていたのだ。
元亀元年(1570)4月、4万の幕府軍が越前へと押し寄せる。大将はもちろん信長である。三河の徳川家康も参戦しており、将軍からは明智光秀らが派遣されていた。
光秀はこの時までに一兵卒を脱して、指揮官の立場に昇進していたらしい。在京時には、高官や有力者と交流を重ねる必要があり、大きな屋敷を与えられていた。
同年、光秀の屋敷には、美濃からやってきた信長とその供廻りを停泊させた記録がある(『言継卿記』)。すでに一介の兵卒から、部下を持つ足軽衆の指揮官に出世していたのだ。光秀は畿内の幕府政治にも関与していた。
これまで未経験の《行政》手腕を、否応なく求められ、これを見事にこなしていたのだ。光秀は1人ではない。幕臣の細川藤孝や織田家臣など、物馴れた武士たちの支えがある。こうしてその大任を一つずつ果たしていた。
だが、指揮官として人数を率い、その進退を命ずる経験はさらにない。おそらく越前討伐が隊長デビューだっただろう。ここに光秀は《足軽》(歩兵)から《武将》(指揮官)にその地位をアップデートしたのである。
だが、本格的な戦闘の前に思わぬ事態が発生する。信長と友好関係にある近江の浅井長政(あざいながまさ)が裏切ったのだ。
前方から朝倉軍が、後方からは浅井軍が挟み撃ちすべく幕府軍に迫る。ここで信長はわずかな供廻りだけを連れてさっさと逃げた。残されたのは織田軍の木下秀吉と丹羽長秀、摂津の池田勝正、徳川家康、明智光秀であった。家康の家臣たちは「信長は我々を見捨てた」と嘆いた。秀吉や長秀らは覚悟を決めて善後策を練ることにした。各自の役割分担が決められていく──。
丹波長秀と明智光秀は、近隣領主から人質を集めた後、邪魔な城の破壊工作を進めた。光秀は軍勢を指揮するのはまだ不慣れである。だが、二条御所の築城実績と、牢人時代には「高嶋・田中籠城」で城の扱いに物馴れていた。ここに光秀の《築城》技能が活きたのだ。長秀も後年、〈安土城〉の普請奉行を任じられるほど、城の仕組みに精通していた。2人とも適任であった。
敵を引き付ける役は、池田勝正や木下秀吉が担った。
こうして連携プレイが功を奏し、織田軍は大きな打撃を受けることなく、朝倉・浅井の追撃を振り切り、無事に帰陣していった。これはすべて信長の指示ではなく、彼らの自主判断によるチームワークの賜物だろう。
しかし朝倉と浅井が無傷のまま、敵対勢力となったことから、織田軍は〈元亀争乱(げんきそうらん)〉と呼ばれる大戦争に向き合わなくてはならなくなった。
明智光秀の成長
さて、ここに光秀の成長ぶりを見てみよう。ここまで得た光秀の力を①心得、②(社会的)地位、③技能の三種にわけて一覧されたい。
①《謀将》《野望》、②《濃姫との縁》《近江の人縁》《公方衆》《武功》《武将》、③《薬学》《和歌》《築城》《行政》
実力なくして幸運を握りしめることはできない。光秀は、運を摑むための努力と、チャンスを見逃さない嗅覚の両面から、己れの価値を高めたのである。
並々ならぬ《野望》と、美濃で学びとった《謀将》の生き様を資本に、越前では《薬学》などの特殊技能を身につけ、何もないところから社会的交流の幅を広げ、さらに《公方衆》の一員として京都に屋敷を持ち、《築城》《和歌》《行政》の腕を磨きながら、幕臣と同等の地位にまで昇り詰めたのである。
比叡山焼き討ちと明智光秀
明智光秀は足利幕府と織田権力による連合政権(二重政権)において、両属的な立場に置かれながら、この政権が壊れないよう尽力する。...