絶賛連載中『謙信と信長』第18回のテーマである「桶狭間合戦」を音声を使って補足説明。多くの人が知っている「桶狭間合戦」にもまだまだ研究の余地はある。なぜ信長は勝利できたのか、奇襲作戦で活躍した人物とは。太田牛一『信長公記』からその真相に迫る。(「謙信と信長(18)桶狭間合戦」はこちらから)
〈内容〉
・「桶狭間合戦」概要
・『信長公記』で見落とされがちな描写
・奇襲作戦成功の立役者・佐久間信盛
・朝比奈親徳(あさひなちかのり)の手紙からわかること
・セオリー通りな「桶狭間合戦」
・織田信長の勝因
・重要人物・佐久間信盛の活躍が『信長公記』に書かれていない理由
『信長公記』で見落とされがちな描写(音声内容の一部を抜粋)
乃至政彦 今回は織田信長の「桶狭間合戦」についてお話ししたいと思います。現在連載中の『謙信と信長』第18回で「桶狭間合戦」について書きました。今回は音声でよりわかりやすく解説していきたいと思います。
「桶狭間合戦」には諸説ありますね。織田信長はどこで戦ったのか。山で戦ったのか、谷で戦ったのかなどいろいろ言われてきました。
「桶狭間合戦」は山ではなくて谷間じゃないかと言われていたことがありますが、やっぱり山じゃないかということがわかってきて、今川義元は山で討たれたというのが定説になっています。
しかしなぜ山の上にいる人物が、しかも大軍に守られているはずの義元が少数の織田信長に敗れたのか。これがよくわからず軍事研究に詳しい方や歴史学者の先生方が諸説を論じあっています。ある程度は分かってきたこともありますがまだまだ分からない部分があります。
『謙信と信長』でも書きましたが、『信長公記』[首巻]を読むと議論されていることが書かれているんです。もう少し『信長公記』を素直に読めばいいのはないかと私は思います。
そこで今回は「桶狭間合戦」について『信長公記』に書かれていることを素直に読むと何がわかるのかということをお話しできればと思います。
まず見落とされがちな点が1つあります。
今川義元の軍が押し寄せて尾張に侵攻しているわけですね。それであちこちの城を攻めさせて先陣が調子よく戦果をあげている。それで義元は桶狭間山に布陣して「我々に勝てるやつはいないぞ」と宴を楽しむ。
一方の織田信長はこれに対抗するために清州から出ていくわけですね。ごく少数の兵で。そのあとに続々と織田軍が集まってくる。熱田神宮のほうに兵が集まって、その兵をもって信長は善照寺砦へ向かいます。
この善照寺砦に入るところが見落とされがちな点ではないかと思います。
善照寺砦に入った信長は次に中島砦、つまりより今川軍に近いところに移ろうとする描写があります。この善照寺砦を守っているのは織田信長の家臣の佐久間信盛です。
佐久間信盛と合流して、自分の手勢2000~3000人を連れて中島砦へ移るぞと決めるわけです。『信長公記』にはこのように書かれています。...続きは本編をチェック
信玄上洛
(1)武田信玄と徳川家康の確執、それぞれの遺恨
(2)上杉謙信の判断、武田信玄の思考を紐解く
(3)甲陽軍鑑に見る、武田信玄の野望と遺言
上杉謙信の前歴
(4)謙信の父・長尾為景の台頭
(5)長尾家の家督は、晴景から景虎へ
(6)上杉謙信と川中島合戦、宗心の憂慮
(7)武田家との和解、二度目の上洛
(8)相越大戦の勃発、長尾景虎が上杉政虎になるまで
(9)根本史料から解く、川中島合戦と上杉政虎
(10)上洛作戦の破綻と将軍の死
(11)足利義昭の登場と臼井城敗戦
(12)上杉景虎の登場
(13)越相同盟の破綻
織田信長の前歴
(14)弾正忠信秀の台頭・前編
(15)弾正忠信秀の台頭・後編
(16)守護代又代・織田信長の尾張統一戦
(17)桶狭間合戦前夜
(18)桶狭間合戦
(19)美濃平定前の第一次上洛作戦
(20)第一次上洛作戦の失敗
(21)上洛作戦の成功
(22)信長が「殿中御掟」で守ろうとしたもの
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